「くりかえし・・くりかえす」
これは映画の裏側、俳優たちのあいだでよく使われる言葉。
-----レペティション

repetition CINEMA





こんばんは。みなさん映画見てますか?

ここは、ぼく---にしめけいぞう---が
旧作・最新作をとりまぜ映画を紹介していくコーナー・・・
まあ、言ってみれば、映画の再上演というところ

俳優の視点から、
「あの映画」のちいさな、そしてあたらしい発見を
コラード@コムへ来ていただいた皆さまに

bbs 





■ナビィの恋

■1999年(日)作品
製作:竹中功、佐々木史朗
監督:中江裕司
撮影監督:高間賢治(J.S.C.)
音楽:磯田健一郎
脚本:中江裕司、中江素子
照明:上保正道
録音:井家眞紀夫
編集:宮島竜治
衣裳デザイン:小川久美子
美術:真喜屋 力
テーマ曲:「RAFUTI」マイケル・ナイマンwith登川誠仁
cast:
西田尚美
    平良とみ
    登川誠仁
    平良進
    アシュレイ・マックアイザック


■ストーリー
都会生活に疲れた25歳の奈々子(西田尚美)が沖縄に帰郷。
帰郷途中のその船に
彼女の祖母ナビィ(平良とみ)の若き日に無理矢理引き離された恋人が
60年ぶりに連れ戻す約束を果たしに、島へ帰って来た。
そして、墓参りの途中で60年ぶりに再会してしまうのだが・・。



昨年公開され沖縄映画としては珍しく
ロングランヒットとなり、ビデオでも
新リリースということで取り上げてみた。
近頃の沖縄映画といえば宮本亜門監督の「BEAT」
清水浩監督の「生きない」、など、沖縄を舞台にした
映画は数多いがそのなかでも沖縄の思想や風土を
嫌みなく自然に映し出した映画としては群を抜いた
出来となっている。
まずはキャストのよさ。
登場人物のほとんどが沖縄演劇界の人やその島に住む
人々、エキストラを使っている。
沖縄映画では得てして、主役に本土の俳優で固めてしまって
沖縄の雰囲気が出せずに終わってしまっているものが多いが
この映画にはそれが無い。あえて言えば
ヒロイン役の西田尚美(「秘密の花園」「学校の怪談」等)が
方言のアクセントに違和感があるぐらい。しかし、持ち前の
のーてんきな明るさで
時折写るブーゲンビリアの真っ赤な花ビラのように
良い意味でこの映画のアクセントになっている。
だがなんといっても60年前の恋を今も胸中に秘めている老女ナビィと
その孫娘・奈々子と本土から来た青年・福之助との恋を
広いこころで見つめるナビィの夫・恵達を演じる登川誠仁が
抜群に素晴らしい。
この登川誠仁というじいさん、沖縄では
「沖縄民謡界のジミ・ヘンドリックス」と言われるほど
三味線の早弾きの名手として有名だが、演技のうえでは
ズブの素人。しかし本作主演にあたり中江裕司監督の切望で
頼みにたのんでようやくの事で実現したわけだが
「沖縄のじいさん、ここにあり。」と言う感じで
その役 を見事に体現している。
例えば畑仕事に行く際、アメリカの国歌をポロン・ポロンと弾きながら
「ランチはとぅえらぶ・さーてぃに持って来ればいいよ。」
と言ってみたり
「福之助君は奈々子が好きだっていうから家につれてきた。」
と言ってみたり。
(もちろん福之助はそんなこと一言も言ってない。)
このじいさんのすっとんきょな言動や雰囲気が沖縄の人の持つ匂いを
感じさせ、このじいさんを観るだけでも
この映画の価値があるような気さえしてしまうのだ。




「福之助君、
大きいおっぱいもいいけど、小さいおっぱいもいいもんだよ。」




もうひとつ注目すべき点はこの恋の物語の結末である。
「えっこれでいいの?」という感じなのだが
そう、これでいいのである。
沖縄の思想のなかに「テーゲー(てきとう)主義」というのがある。
なにごとにもこだわらなく、柔軟。悪く言えばいいかげんなのである。
それはそういう風にしなければやってられない、
という歴史があるからだ。
琉球王国時代に薩摩藩に侵略され、第二次世界大戦でも
日本で唯一の地上戦で何十万人の死者を出し、現在でも
日本とアメリカの友好関係のためだけに
県土の主要部分をアメリカの軍事基地に奪われている。
その暗い影が沖縄には常につきまとうが
その暗い影にあえて焦点を合わせず、
沖縄の思想、風土、そして人々のその暗い影を吹き飛ばす
底抜けな陽気さに焦点をすべて合わせているのである。

 エピローグで登場人物、エキストラの島々の人々すべてが、
カチャーシィー(沖縄で祝い事の時に 良く踊る踊り)を踊っている。
登川誠仁の奏でる音楽の素晴らしさ。そして踊っている人々の陽気で
幸せそうな顔、顔、顔、の素晴らしさ。それが延々と続いていく。
ふと現代の物質的、競争社会にはない、なにかを観ている気がして
思わず胸が詰まってしまった。

bbs











■冒険者たち

■1967年(仏)作品
監督:ロベール・アンリコ
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
脚本:ロベール・アンリコ
   ジョゼ・ジョヴァンニ
   ピエール・ペルグリ
撮影:ジャン・ボフティ
製作:ポール・ラファーギュ
音楽:フランソワ・ド・ルーベ
美術:ジャック・ドイディオ
キャスト:リノ・ヴァンチュラ
     アラン・ドロン
     ジョアンナ・シムカス
     セルジュ・レジアニ
     ポール・クローシェ


■ストーリー
免許証を取り上げられたパイロット
スポーツカーのエンジン改良に失敗した修理工
前衛アートに挫折した美大生の3人が意気投合し
アフリカの海に沈む財宝を探しに狡獪に出るのだが・・・



そろそろ夏も終わりに近づいてきましたが
その時期によく観たくなる映画がこの作品。
好きな映画といい映画というのがありますが
この映画は個人的に前者の方。
もちろん、名作には違いないのですが
なぜかしら「好きな映画」と言いたくなってしまうのですが
かのリュック・ベッソン監督もこの映画をお気に入りらしく
この映画へのオマージュとして「グラン・ブルー」を制作したほど。
男二人に女一人の三角関係の図式のなかに
男同士の友情や海に対するロマンチシズム
印象的なショットの酷似点、など。
違いは、場所設定が海だけではなく、空に陸にと
「LES AVENTURIERS」(冒険者たち)の題名のとおり
夢を掴むためにその地点にとどまらないあたり。
そして映画のほぼ全編に渡って流れるフランソワ・ド・ルーベの
美しい口笛のメロディ。
この口笛のメロディを含むサウンド・トラックが二部構成に
なっているあたりがこの映画のミソ。
前半を美しいも哀しい口笛のメロディで
後半を荒々しい跳動的な音楽で繰り返し流している。
シーンも初めの廃品の山から始まり
ラストの海に浮かぶ朽ち果てた要塞跡の長回しで締めている。
そう、この映画、登場人物のロマンチシズムだけを描いている
わけではなく、その裏にある虚無感を一対の形で描いているのである。
ロマンチシズムと虚無感、恋愛と友情、そして淡々と流れる音楽と
映像の美しさ。



この危ういバランス感覚がこの映画を持ち味なのですが
それよりもこの三人が、陸に空に海にと夢を追い続ける姿
そのものが、小さな現実を忘れさせ
忘れかけていた「冒険心」を呼び起こしてくれるあたりが
「好きな映画」と思わせてくれる原因の一つなのでしょうか。









■女優霊

■1996年(日)作品
監督:中田秀夫
脚本:高橋洋
色原案:中田秀夫
撮影:浜田毅
美術:斉藤岩男
編集:掛須秀一
照明:渡邊孝一
音楽:河村章文
特別協力:にっかつ撮影所
出演:柳ユーレイ
   白鳥靖代
   根岸季衣
   石橋けい
   高橋明
   大杉漣
   菊池孝典


■ストーリー
新人監督の村川(柳ユーレイ)は、今、デビュー作制作の真っ最中。
だが、たまたまカメラテストに使ったフィルムが
すでに撮影された未現像フィルムだったことから
事態は思わぬ方向へ進んでいく。
現像されたフィルムに写った女優の顔
子供が階段を昇るシーンに見覚えのあった村川は
子供の頃見た怖いTV番組だと確信を持つのだが
怖かったという記憶だけで、その詳細が思い出せない。
そうこうしているうちに
撮影所内で次々と不思議な出来事が起こり始め、ついには・・・



今回は、季節ものでホラー系をひとつ。
ホラーといっても、スプラッターや、サイコ、ジャンク
最近ではヒーリングものなどいろいろありますが
今回の作品は怪談もの。
監督は「リング」等でおなじみの中田秀夫監督。
撮影所内で起こる怪奇な事件の数々といった話の内容で
デビュー作を撮影している新人監督を演じているのが
主演の柳ユーレイ。
ユーレイがユーレイ映画の主演
という、ギャグ的な理由で起用されたわけではもちろんなく
中田秀夫監督とは旧知の仲だそうな。
この柳ユーレイ、そこらへんのコンビニで立ち読みしてそうな
どこにでもいるお兄さんという感じなのですが
その平凡さや、淡々とした雰囲気が
かえって逆にこの映画の怖さを引き立てているわけですが
撮影所内、新人監督という設定も中田秀夫監督の経験した思いが
そのままストレートに反映されているわけであります。
中田秀夫監督いわく
「助監督時代、夜中に忘れ物を取りに撮影所に入ると
撮影所の中は真っ暗なんだが、中は妙になまあたたかい。
昼間、撮影中の監督や役者の情熱や感情が
そのまま取り残されている感じがして瞬間的に寒気が走った。」
「友人いわく映画の撮影中に女優が上を見たまま止まっている。
それにつられてみんなも上を見上げている。
なんだろうと思い上を見上げると屋根裏のブースに
そこにいるはずもない少女がぽつんと立ってこちらを眺めていた・・・
そういう話はよくあるんです。」
「霊の怖さというものはただなにもせずそこに立っている
なにもせず立っているという存在自体が怖いと思うのです。」


なるほどこの映画の怖さは
なにげないショットの数々にふと後ろにたっている
という現実的で心霊写真を見たときに感じるような感覚を
上手くねらっています。
もちろんそれは話の序盤であって、話が進むにつれ霊の存在が
クローズアップされていくわけですが
ラストあたりでたたみかけるようなシーンの数々に
「もう勘弁してください。」といいたくなるほどで
特にあのシーン・・・強烈すぎてうなされそうです。
この一連の怖さの表現の仕方にこの監督の上手さがあって
二度見たとしてもその上手さゆえに
この怖さが薄れないところにも
うーんと、うなってしまうのです。













■奇人たちの晩餐会

■1998年(仏)作品
監督・脚本:フランシス・ヴェベール
製作総指揮:アラン・ボワレ
撮影:ルチアーノ・トヴォリ
音楽:ウラジミール・コスマ
編集:ジョルジュ・クロツ
美術:ユーグ・ティサンディエ
製作:ゴーモン・インターナショナル
キャスト:ジャック・ヴィルレ
     ティエリー・レルミット
     フランシス・ユステール
     ダニエル・プレヴォスト
     カトリーヌ・フロ
     エドガー・ジブリィ
     クリスチャン・ペラーレ
     ペトロニル・モス


■ストーリー
毎週水曜日、出版社の社長ピエールと友人たちは
”奇人たちの晩餐会”をひらいている。
ルールはいたって簡単。必ず1人、奇人を連れてくること。
誰もが認める奇人を見つけてきた者が勝者となるのだ。
彼らは、お互いに連れてきた奇人たちのおバカぶりを競い合って楽しんでいる。
今夜、ピエールは笑いが止まらない。
なぜなら彼には切り札があるからだ。
「俺の見つけたヤツこそ、おバカ中の大バカだ!!」



たまにはバカな映画でも観てみたいな
ということでこの作品。
観ていると、出てくる場が出版会社社長の一室のみ。
テンポよく続くセリフの掛け合い。
舞台っぽいな、と思っていたらやはり
同監督、作、演出による舞台の映画化。
あまりの人気ぶりにスピルバーグが、リメーク権を買い取り
ダスティン・ホフマン主演で再映画化が決まっているとのこと。
ストーリーは「バカとはさみは使いよう」という喩えのように
使い方を間違えると大変なことになりますよ、と言った感じ。
スティーブ・マーチン主演で「大災難」という映画を思い出すが
笑わせ方が大きく違う。
アメリカ映画の場合、動きや身振りで笑わせてくれるが
この場合、身振りや動きはほとんどなく、会話のやりとりだけで
笑わせてくれる。そこらへんがフランス映画のお洒落な感じを
コメディでも感じさせられる。
主演の、マッチ棒で模型作りが趣味の中年男、ピニョンがいい。
フランス版ダニー・デービットと言った感じで
チビで、デブでお人好し。
一つのことを考えると、前のことを3秒で忘れてしまう。
お人好しなので、なんでも話につっこんでしまう。
そしてその話をドンドンぶち壊していく。
何千本のマッチ棒でコンコルドやエッフェル塔を作る繊細な男が
大胆に話をぶち壊していくという設定が上手い。
もちろん、「ただ話をぶち壊していくバカな男」で
終わるのではなく、 彼は本当にバカなのか
最終的には本当のバカとはどういうことなのか
ということを考えさせてくれる。
原題は「le diner de cons」。
consはフランス語でバカ(奇人)を意味するらしい。
dinerは晩餐会になるのだろうが
なるほどこの作品自体が
前菜にはじまりメインディシュ、そしてデザートと
ひとつのフルコースになっているということか。
さすがおフランスである。












■浮き雲

■1996年(フィンランド)作品
監督・脚本・編集・制作:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
照明:オルヴァリア
   リスト・ラアソネン
   オラヴィ・トォオミ
   ラウリ・トンミラ
衣装:トゥーラ・ヒルカモ
キャスト:カティ・オウティネン
     カリ・ヴァーナネン
     エリナ・サロ
     サカリ・クオスマネン
     マルッキイ・ペルトラ
     マッティ・オンニスマー
     マッティ・ペロンパー
     ピエタリ
     シェリー・フィッシャー


■ストーリー
イロナ(カティ・オウティネン)は、ヘルシンキの老舗レストラン給仕長の女。
夫のラウリ(カリ・ヴァーナネン)は市電の運転手。
ローンはあるが素敵な我が家だ。
が、折からの不況で、2人は次々に失業してしまう。
若くはない2人の職探しは、上手くゆかない。



フィンランドの監督、アキ・カウリスマキ監督の作品。
「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」
の監督として日本では有名です。
この映画、まず全体の色使いが綺麗。
路面電車の緑、壁の青や黄色、登場人物の赤のコートなど。
派手な色使いがかえってヘルシンキの町並みや
灰色掛かった重い空を浮きだたせ
その町の閉鎖性をうまく表現しています。
主人公がまたいい。同時期に失業してしまった中年夫婦なのですが
二人とも本当にただのオッサンとオバサン。
淀川長治さんがこの映画を「貧乏くさい映画、そこが良い。」
といってましたが、うなずけます。
冒頭のシーンで二人いっしょに仕事から帰ってきて
玄関口でいきなり旦那が奥さんに手で目隠しをする。
ゆっくりソファーに連れていき、ぱっと手を離すと
そこには、SONYのカラーテレビが。
「リモコンがあるから立ったり、座ったりしなくて便利だ。」
「・・・ローンが色々残っているのよ。」
「これのローンは春からスタートだ。」
「・・・。」
「・・・。」
「・・・ねましょ。」
「・・・うん。」
全編に渡り、ボソッ、ボソッ、とした会話。
出てくる人、出てくる人、無表情。
段々と落ちぶれていく二人の遠まきのショット。
よく観ると旦那が飼っている犬のしっぽが パタパタ揺れている。
その会話や映像の間の取り具合が妙に可笑しくて
おもわず、「クスッ」と笑ってしまいます。
ストーリー展開も好く、山あり谷ありではなく
谷あり、谷ありの連続で最後の最後に緩い山を用意している。
緩い山をもってくるあたりが
かえって観ているものにリアリティを感じさせてくれます。
最後の長回しのショットで
二人が上を向いて空を眺めているのですが
空のショットは一切でてこない。
しかし二人の眺めているものはタイトルになっている
「浮き雲」なのでしょうが、その「浮き雲」が澄んだ空に
綺麗に映し出されていることは容易に想像できるのです。












■鬼火

■1963年(仏)作品
監督・脚本:ルイ・マル
原作:ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル
撮影:ギスラン・クロケ
編集:スザンヌ・バロン
音楽:エリック・サティ
キャスト:モーリス・ロネ
     レナ・スケルナ
     アレクサンドラ・スチュアルト
     ジャンヌ・モロー
     イボンヌ・クレッチ


■ストーリー
アル中患者として療養所で暮らすアラン・ルノワは
かつて社交界の花形だったが、今は死を前にするだけになった。
彼は自らの命を絶つことを考え
その前にパリの旧友を訪れるのだが・・・。
かつての女友達のジャンヌを始めとするかつての友人たちは
ことごとく保守的な知的俗物に変わり果てていた。



巨匠ルイ・マル監督の最も完成度の高い作品と言われています。
あえて陰影のあるモノクロ映像で撮られ
全編、エリック・サティのピアノ曲
「ジムノペディ」と「グノシェンヌ」が
主人公の心情を代弁するかのように流れています。
「大人になりきれない」男の二日間を
カメラが冷淡に捉えているのですが
時おり写されるパリの人々の日常が
より一層この男の孤独感を深めていきます。
周りの旧友たちは何かしらの折り合いをつけ
妥協した生活を送っているのですが
この男は、その妥協した生活に染まることを拒みつづけます。
以前は社交界の中心人物だったのですが
時がたつにつれ彼はそのひとりになることが耐えられなく
「ただ誰かに愛されたかった。」と嘆くのですが
それは彼のエゴでしかあり得ないわけですが
この「悲しい」男のことを観ている側にとって
否定することはできないのです。
ひとはなにかしら妥協し、折り合いをつけ保守的な生活を
送らざるを得ないわけですが、あえてその道を拒んだ彼に対して
「嬉しさ」さえ感じてしまうのです。




「僕は寂しすぎると死んでしまう。」



原作者のドリュー・ラ・ロシェルも
原作のモデルであったとされるダダイズムによった詩人
ジャック・リゴーもまた、保守的で妥協的な生活を拒み
自らの手で自らの人生に幕をとじています。











■M:i-2

■1999年(米)作品
監督:ジョン・ウー
製作総指揮:ポール・ヒッチコック
      テレンス・チャン
製作:トム・クルーズ
   ポーラ・ワグナー
脚本:ロバート・タウン
撮影:ジェフリー・L・キンボール
衣装デザイナー:リジー・ガーディナー
プロダクション・デザイン:トーマス・E・サンダース
視覚効果スーパーバイザー: リチャード・ユーリッチ
音楽: ハンス・ジマー
キャスト:トム・クルーズ
     ダグレイ・スコット
     サンディ・ニュートン
     ヴィング・レイムス
     リチャード・ロックスバーグ
     ジョン・ポルソン
     ブレンダン・グリーソン
     レイド・セルベッジア
     アンソニー・ホプキンス  


■ストーリー
ロック・クライミングをしているイーサン・ハントの元に
またしても指令が届いた。
今度 のミッションは細菌兵器を狙う元同僚の陰謀を阻止すること。
そして、そのためにまず、やり手の女泥棒ナイア・ホールに接触せよ
というものだった・・・。



イーサン・ハント(トム・クルーズ)は
何千フィートもの高さの崖の岩肌で
ロック・クライミングをしている。
彼がまさに不安定な頂上に登りつめた、その時
サングラスが山頂にヘリコプターから落とされる。
彼がそれをかけると声が流れだす。
「おはよう、ハント君。今回のミッションは----------
       ----------5秒後に自動的に消滅する。」
サングラスを放り投げ、爆発する瞬間、テーマ曲が流れだす。
・・・・・・・・・・脳がしびれます。
待ちに待ったという感じです。
後は怒濤の如くトム、トム、トム
これでもかといわんばかりにトム一色です。
が、あまりのトムの決めぶりに
「これってコメディー映画?」と、感じるほどです。
前作は、「スパイ大作戦」の色を残し
機密情報部員のひとりという描かれ方でしたが
今回は、ジョン・ウー監督曰く
「前作とは違うアプローチをしたかった。
ロマンティックに仕上げたかったんだ。」
と語る通り、ラブストーリーを中心とした
アクション満載娯楽映画という形をとっているのですが
それがかえって逆に、どっちつかずの中途半端な印象を与え
観る者によって好みが分かれてしまう作品になってしまっています。
結局、トム・クルーズによるトム・クルーズの為の
トム・クルーズ作品なのでしょうか。


順風満帆な人生を送っているように見られがちなトムですが
貧しい家庭に育ち反教師的な父親の為に両親が離婚し
生活を支える母親と共に住居を転々とした不遇な少年時代。
そして、識字障害(トムの場合、文字を認識することができず
文章の一段落目から二段落目に移ることができない)を克服。
「トップ・ガン」で一躍スターダムに登りつめ
「ハスラー2」でポール・ニューマン
「レインマン」でダスティン・ホフマン
「ア・フュー・グッドメン」でジャック・ニコルソン
と共演して演技を学び、一歩一歩確実にキャリアを積み上げ
「7月4日に生まれて」「ファーム/法律事務所」
でシリアスな演技が出来ることを証明してみせ
「ミッション:インポッシブル」「M:i-2」
でプロデューサーとしての地位を確立しています。
いまやハリウッドいち、礼儀正しく紳士的。
映画1本で1500万ドル(約15億7500万円)ものギャラを稼ぎ
そして2億ドル(約210億円)以上の
興収を記録するヒット作のプロデューサーとなった彼。
不屈のハングリー精神により
「M:i-2」の冒頭シーンのように彼自身の人生を登りつめています。



人として素晴らしくありたい。
それが僕の、何よりの目標だね。
俳優、スターとしての成功以前に
そんな些細なことが
僕にとっては
とてもとても重要で大切な目標なんだ。
by トム・クルーズ










■サイダーハウス・ルール

■1999年(米)作品
監督:ラッセ・ハルストレム
製作:リチャード・N・グラッドスタイン
原作/脚色:ジョン・アーヴィング
製作総指揮:ボブ・ワインスタイン
      ハーヴィ・ワインスタイン
      ボビー・コーエン
      メリル・ポスター
キャスト:トビー・マグワイア
     シャーリーズ・セロン
     デルロイ・リンド
     ポール・ラッド
     マイケル・ケイン

    
■ストーリー
物語の舞台は1940年代のニューイングランド。
孤児院で生まれ育った主人公ホーマーは
院長であるウィルバー・ラーチ医師と看護婦たちの
愛情に包まれて健やかに成長する。
いずれはホーマーを自分の右腕にと望むラーチ医師だったが
彼は違法な堕胎手術を行う院長に反発し
自分の人生を探すために孤児院を出ていく。
彼がやってきたのは大きなリンゴ農園。
収穫期に農園にやってくる黒人の労働者たちと同じ小屋に寝泊まりしながら
ホーマーの新しい生活が始まる。
ホーマーの友人と言えるのは、出征している農園の息子の恋人。
やがてふたりは愛し合うようになるのだが……。



ふと自分自身の過去を振り返った時
ある出来事を鮮明におもいだすのですが
何かしら灰色がかったフィルターを通して
という感じになるのです。
この作品も、若者が人生の岐路に立ったときの選択
というテーマのもと、黒でも白でもなく
中間色のフィルターを通して
柔らかく良い意味での曖昧さを保っています。



主人公ホーマーを演じるのは、若手俳優トビー・マグワイア。
日本では、「タイタニック」でディカプリオが来日した際
一緒に同伴してディカプリオの親友として
日本では有名になりました。
素朴で優しさの中に強い意志をもつ青年を好演しているのですが
初めて海を見るシーンで「わーきれいだ。」ではなく
ただ、じっと海を眺めているのです。
そのただ海を眺めてるということが
演技の上では逆に難しいのですが
若干25才にしてそこらへんの演技のツボを
心得ているあたりに今後の将来性が期待できます。
孤児院の院長をマイケル・ケインが演じているのですが
アカデミー助演男優賞を受賞するだけあって
素晴らしい演技をみせてくれるのですが
孤児院の子供達を寝かしつけた後、必ず言う言葉
「おやすみ、メインの王子、ニューイングランドの王。」
このセリフがシェイクスピア調で
さすがイギリスの名優といった風格をみせてくれます。
その他にも、主人公ホーマーを新しい世界に
連れ出す女性をシャーリーズ・セロンが
リンゴ農園のリーダーをデルロイ・リンドが
孤児院の子供達を、その地域に住むエキストラの子供達が
演じているのですが、ひとりひとり自分のパートを
良く理解していて、ひとつの協奏曲という風に
ラッセ・ハルストレム監督(ギルバート・グレイプ)が
指揮をとっています。



悲しいエピソード、辛い現実を描いているのですが
見終えた後、やさしいきもちに包まれるのは
創り手の作品に対する愛情が柔らかな風景と共に
観ている人の自分自身の過去の風景が
思い起こされるからなのでしょう。

2000年第72回
アカデミー賞助演男優賞
      脚色賞受賞
他5部門[作品賞・監督賞・編集賞・作曲賞・美術賞]
ノミネート作品であります。












■二十日鼠と人間

■1992年(米)作品
監督:ゲイリー・シニーズ
原作:ジョン・スタインベック
脚本:ホートン・フート
出演:ジョン・マルコビッチ
   ゲイリー・シニーズ
   レイ・ウォルストン
          
  
■ストーリー
子供の知能しか持たないが心優しいレニーと
彼をかばいながら旅するジョージ。
レニーがいつも問題を起こすため
彼らはなかなか職場に定着できなかったが
ある農場で二人は順調な生活を送り始める。
ところがある日、事件が起きてしまうのだった。



アメリカを代表する作家のひとり、ジョン・スタインベックの
同名小説の再映画化であります。
知的障害をもつ大男をジョン・マルコビッチが
彼を支える理知的な男をゲイリー・シニーズが
うまく演じているのですが、それもそのはず
この二人、無名時代から一緒に
同作同役を舞台で演じつづけていまして
その長年の息の合った二人の呼吸が役柄に反映されています。



この作品、登場人物のすべてが
なにかしらに束縛されているわけですが
黒人は肌の色に、老人は老いていくことに
牧場主の息子の嫁は息子の嫉妬に
主人公のジョージはレニーの無知に、縛られていますが
当のレニーは自分自身の無知に
縛られていることさえ理解できません。
そこに悲劇が生まれるわけですが
最終的に主人公のジョージが下す判断は
社会のルールに捕らわれることのない世界
(自分たちの経営する牧場を持つ)
という夢を、いつも語りあっていた二人にとって
あまりにも残酷です。
ラストのフッラシュバックでみせる
見つめあい、笑いあい、信頼しあう二人。
黄金の麦畑を歩くジョージに
母にすがる子供のように寄り添うレニー
二人の後ろ姿を見ていると
どうしようもなく涙が出てきてしまうのです。









■グロリア

■1980年(米)作品
監督:脚本:ジョン・カサヴェテス
音楽:ビル・コンティ
製作:サム・ショウ
撮影:フレッド・シュラー
美術:レネ・ドルレアック
衣装:エマニュエル・ウンガロ
   ペギー・ファーレル
出演:ジーナ・ローランズ
   ジョン・アダムス
   バック・ヘンリー
   ジュリー・カーマン           
  

■ストーリー
ニューヨーク、サウスブロンクス。
古びたアパートで皆殺しにされるプエルトリコ人一家。
そして、一人生き残った6歳の少年フィルは
同じアパートに住む女、グロリアの元へあずけられる。
フィルは、父から渡された組織の資金の流れを記したノートを持っていた。
フィルを捕まえようとする組織。
かつては組織の一員だったグロリアは、昔の男や友人を敵に回すことになる。



この年のアカデミー主演女優賞ノミネート
ベネチア映画祭主演女優賞受賞、金獅子賞受賞作品であります。
ここ最近でも、「レオン」や
シャローン・ストーンのリメイク版「グロリア」の
原型として使われているのですが、なんといっても
グロリア扮するジーナ・ローランズの銃を撃つシーンや
しぐさ、立ち振る舞い、セリフ
一挙一動が実に様になっているのです。
食堂でウエイトレスにメニューを注文した後に、軽く
「消えろ。」と言うのですが
その言い方にさえ名女優の貫禄さえ魅せてくれます。
派手なアクションシーンはないのですが
追う者と追われる者という単純なストーリーの中に
その当時のニューヨークの町並みの匂いや
家族愛、徐々に芽生えてくる母性愛などを
うまく取り入れています。



この映画の監督ジョン・カサベテス
言わずと知れたインディーズ映画の巨匠でありますが
「アメリカの影」「フェイシズ」「こわれゆく女」
「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」など
創る作品すべてが独創性に満ち溢れているのですが
その理由として、黒沢 明監督が語っていた言葉に答えがあります。
「昔の日本映画が何故すばらしいのかというと
その当時、何の制約もなく自由に映画を創ることが出来たんだ。
今は制約だらけで何も生み出す事が出来ない。」
あえてハリウッドの商業映画を避け
私財をなげうってまで創った作品=魂は
今にちでもヴィム・ベンダース、ジム・ジャームッシュ
ショーン・ペン、ビンセント・ギャロ等
多くの映画人に影響を与え続けています。










■小さな恋のメロディー

■1971年(英)作品
監督:ワリス・フセイン
脚本:アラン・パーカー
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:ビージーズ
出演:マーク・レスター
   トレイシー・ハイド
   ジャック・ワイルド
   ロイ・キニア
                 
  

■ストーリー
ダニエル(マーク・レスター)は
ロンドンの小学校に通う11歳の男の子。
ある日学校で悪友のトム(ジャック・ワイルド)に誘われて
女子生徒のバレエの練習を覗いた。
ダニエルは、その中の女の子
メロディ(トレイシー・ハイド)に一目惚れしてしまう。



実はこの映画、名作なのですが
最近まで観たことがありませんでした。
何か青臭く感じ、抵抗があったのです。
偶然、深夜のテレビで放送されていまして
それから立て続けに何回も観てしまいました。
全編に流れるビージーズの名曲
「メロディ・フェア」「若葉のころ」と
かさなり合う映像が、だれしもがもっている初恋の頃の記憶を
ストレートによびおこしてくれるのです。

作品中すべてが対照的に描かれています。
初めて、ふたりだけで語り合うシーンから---
 ふたりのひみつの場所、100年前の墓石の前で
メロディ
「" 50年にわたる愛情に感謝を捧げる 
             1893年7月7日永眠 "
     " 妻の元に逝く 1893年9月11日永眠 "
     奥さんが死んだ2ヶ月後よ。」
ダニエル「すごく愛してたんだ。」

メロディ「50年ってどれくらい?」
ダニエル「休みを抜かして150学期だ。」
メロディ「そんなに愛せる?・・・ムリよね。」
ダニエル「出来るさ。もう1週間も愛してる。」
 愛を全うして永眠の床についているふたりと
 今はじめて愛を確かめあったふたり。

メロディには、その時期の少女のもつ
飾り気のない魅力にひきつけられ
ダニエルくんの容姿や性格、言動が「星の王子様」を連想させ
大人のもつ常識に縛られた醜悪な世界と
子供のもつ自由で純粋な世界を
平均年齢20代のスタッフが創りあげています。



このふたりについて
その後の経歴を述べようと思ったのですが
ラストのシーンでトロッコを漕ぎながら
地平線の果てに
ふたりで消えていく姿をみていると
そんなことをすることが
とても陳腐なことのように思えてくるのです。








■レイジング・ブル

■1980年(米)作品

監督:マーティン・スコセッシ
製作:アーウィン・ウィンクラー
   ロバート・チャートフ
原作:ジェイク・ラモッタ
脚本:ポール・シュレイダー
   マーディグ・マーティン
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:レス・ラゼロビッツ
出演:ロバート・デ・ニーロ
   キャシー・モリアーティ
   ジョー・ペシ
   フランク・ヴィンセント
   ニコラス・コラサント
   テレサ・サルドナ
                    
  

■ストーリー
1940年代のアメリカ。
実在したミドル級のボクサー
ジェイク・ラモッタ(原作者)の半生を描いた作品。
破竹の勢いでチャンピオンに挑戦するまでになったラモッタだったが
私生活は破綻の一途をたどってしまう・・・。



「夜、時折過去を振り返ると
自分の人生が古い白黒映画になって頭に浮かんでくる。
その映画はもちろんA級の映画ではなく
薄暗いシーンが続いてオープニングもエンディングもない。」
この文章は
実在の主人公、ジェイク・ラモッタの自伝本の冒頭であります。
この文章を、監督
スコセッシとデニーロが読んで
すぐに映画化することに決めたそうです。
確かに、全編白黒で撮られており
冒頭のシーンのもの悲しげな音楽が流れる中
リングの隅でひとりシャドーボクシングをしている
デニーロの姿に重い雰囲気が漂っています。
その時代、ハリウッドの娯楽映画(ロッキーなど)が
並んでいる中、異彩を放つ作品になっているのですが
中でも、語りぐさになっているのは、デニーロの演技で
若かかりし頃のラモッタを筋肉質で演じ
落ちぶれた頃のラモッタを約30kg増やして
20数年に渡る人生の経過を約6ヶ月で創りあげています。
(彼のことをカメレオンアクター、役作りの過程を
デニーロアプローチなどと呼ばれるようになりました。)



肉体的な豹変ぶりに注目が集まったのですが
精神的な二面性、攻撃性と臆病性もうまく演じきっています。
数年前、テレビのインタビューで演技のことについては
ほとんど話したがらない彼がポロッと言っていた事があって
「役を演じる上で私は、その役のロマンチシズムと
その役の臆病さを頭に入れて役をつくるようにしている。」
と語っていました。
ラストのシーンも興味深く、ラモッタの店で
エンターティナーとしてのセリフを暗唱するシーンがありますが
マーロン・ブランド主演の「波止場」の有名なセリフ
「おまえが負けろと言ったから負けたんだ。
俺が挑戦者になっていれば
こんなにクズにならずに済んだんだ。」
をブツブツ言っているのですが、ラモッタ自身にも
当時マーロン・ブランドと比較されていた
デニーロ自身にも掛かっているセリフなのですが
「ラモッタでも、ブランドでもない、俺は俺なんだ。」
と言っているように聞こえます。
そして今にちでも、この作品をデニーロの出演作の中でも
お気に入りに挙げる人間は数多くデニーロ自身も
この作品で初のアカデミー主演男優賞に輝いています。












■鬼畜

■1977年(日)作品
監督:野村 芳太郎
脚本:井出 雅人
製作:野村 芳樹/野村 芳太郎
原作:松本 清張
撮影:川又 昴
音楽:芥川 也寸志
出演:緒方 拳
   岩下 志麻
   小川 真由美
   蟹江 敬三
   大竹 しのぶ
                      

■ストーリー
小さな印刷屋の主人が
よその女に生ませた3人の隠し子を突然引き取る事になってしまう。
妻になじられ、追いつめられる日々が続くなかで
やがて末っ子が不審な死を遂げる。
そして、長女を東京タワーの雑踏に置き去りにし
男は残る長男を連れて、北陸海岸の断崖に立つのだが・・・



隣の家で「なにやってんの!!」と子供を叱る
母親のかんきり声が聞こえまして
ときどき、ドキッとすることがあるのですが
そんな時にふと思い出す映画がありまして
それが今回とりあげる映画「鬼畜」であります。
 岩下 志麻演ずる本妻は鬼気迫る物がありまして
極妻の比ではありません。
末っ子に「食えぇ!!」と、ご飯をのどに詰め込むシーンは
見ていてぞっとするものがあります。
子役が撮影中ずっと寄りつかなかったほどの鬼婆ぶりで
後に(徹子の部屋)で「ごめんなさいねぇ・・おほほほほ。」と
謝っておりました。
 演技でいえば、本妻と妾の間を行ったり来たりする印刷屋の主人を
緒方 拳が好演しているのですが
なんといっても、酔っぱらいながら自分の過去を語るシーンは
圧巻で、徐々に酔い潰れていく感覚と
自分のつらかった幼少時代の感情を表現していく演技に
彼の技量の大きさを感じさせられます。



さて、この映画
純粋な子供の世界観と愛憎渦巻く大人の世界観を
交互に対比させながら、親と子の絆をテーマにしているのですが
ラストで見せる長男の純粋な、まなざしと
それでも親を想い投げかける言葉には胸を打つものがありまして
名男優、緒方 拳も
名女優、岩下 志麻も
強いては、大人の世界観までも
とても小さなものに見えてしまうのです。











■狼たちの午後

■1975年(米)作品
監督:シドニー・ルメット
脚本:フランク・ピアスン
製作:マーティン・ブレグマン
   マーチン・エンフェルド
   ロバート・グリーンハット

キャスト:アル・パチーノ
     ジョン・カザール
     チャールズ・ダーニング
                                    
■ストーリー
銀行強盗に入った犯人たちと人質たちの
心の葛藤を実話を元に描いた作品。
白昼堂々ブルックリンの銀行を襲撃した二人組の男、ソニーとサル。
じきに二人は警察とFBIに包囲されてしまう。
そこへ詰めかける報道陣や野次馬たち。
二人は銀行員を人質に立てこもり・・・
その様子は、やがて群衆から英雄視されていくことに。



原題は「dog day afternoon」
dog dayは(蒸し暑い)と訳するそうです。
確かに、全編を通してその蒸し暑さがイヤになるほど伝わってきます。
ストーリーは、銀行強盗物というありふれた題材ではありますが
そこは70年代を代表する作品でありまして
他の物とは違うテーマが扱われています。
国家権力と立ち向かうアンチヒーロー像を描いてまして
「サタデーナイトフィーバー」のジョン・トラボルタの部屋に
「狼たちの午後」のポスターが飾られていることからも伺えます。
主人公がホモであり、太った妻がいたり、母親に説教されたり
押し入った銀行には金がなかったりと
踏んだり蹴ったり的な役ではありますが
徐々に人質との間に、国家権力と対立する仲間意識が芽生えてきて
観る者をどんどん引き込んでいきます。
ラストに魅せるアル・パチーノの表情が
この映画のテーマをすべて物語っているようにみえます。
ピエロのようなおかしさや悲しさを漂わせる役柄が
アル・パチーノの雰囲気と妙にマッチして
実際はこういう役柄が一番合っているのでは?と感じられます。
 この作品の実話は、ストックホルムで起こった銀行強盗事件で
被害者が加害者に同情的な気持ちを持ってしまう現象のことを
この事件より「ストックホルム症候群」と呼ぶようになったそうです。



まだまだ駆け出しの頃の彼のエピソードをひとつ。
NYアクターズスタジオ(ロバート・デニーロ、ダスティン・ホフマン、ジェームス・ディーン、マーロン・ブランドを輩出した俳優養成所)
の同期生とあるシーンを演じることになり
その相手の語るところによると
真夜中の就寝中4時過ぎ、アル・パチーノの突然の訪問・・・
「さあ、シーンの練習をしようじゃないか。待てないんだ。」
と言ったそうな。

その後、1970年「ナタリーの朝」でデビューし
アカデミー主演男優賞受賞1回
アカデミー主演男優賞ノミネート5回
アカデミー助演男優賞ノミネート3回
現在「エニィギブンサンデー」「インサイダー」と
60才を過ぎてもまだまだハリウッドの第一線で活躍中であります。











■アメリカン ビューティー

■1999年/ドリームワークス(米)作品
監督:サム・メンデス
脚本:アラン・ポール
製作:ブルース・コーエン&ダン・ジンクス
音楽:トーマス・ニューマン

キャスト:ケビン・スペイシー
     アネット・ベニング
     ソーラ・バーチ
     ウェス・ベントレー
     ミーナ・スバーリ
     ピーター・ギャラガー
     アリソン・ジャーニー
     クリス・クーパ
                                    
■ストーリー
レスターバーナム(ケビン・スペイシー)は42才。
雑誌社で広告の仕事をしている。郊外に買った家で
妻キャロライン(アネット・ベニング)、娘のジェーン
(ソーラ・バーチ)と暮らしている。
毎日が妻や娘の蔑みにあい死んだように暮らしていた。
ある日、レスターはジェーンがチア・ガールとして出場する
バスケットの試合を見に行った。だが、レスターの目は
ジェーンではなく、チーム一の美少女アンジェラ(ミーナ・スバーリ)
に釘付けになる。その瞬間レスターは恋に落ちたのだった。





妻のキャロラインはキーキー魔人で凄すぎ!
旦那が娘の友達に走っちゃうのも、うなずけます。
特に注目は、隣家の息子のリッキーで
ビデオカメラを通してしか物を観ることが出来ない
サイコ野郎なんですが、話がすすむにつれ
こいつが一番まともなんじゃないかと思ってくる。
「この世でいちばん美しいものを見せてあげる。」
と主人公の娘ジェーンにあるものを見せるのですが・・・
ぁあ・・これ以上は言えない。



「ユージュアル・サスペクツ」「セブン」と
キレ役が多かった彼ですが
今回は、大泉 晃ばりのダメおやじをうまく演じきっています。
さすがと思わせるのは、キレる場面でも
今までとは違うスタンスで演じることが出来るということです。
許容範囲の広さを観せてくれます。
何回か笑わせてくれるシーンがありますが
う〜ん残念・・・言えません。
例えるならば、デタラメ英語を歌って
それを両親に聞かれた時のような
こっぱずかしい気持ちにさせられます。

題材はアメリカの平凡な中流家庭を描いているのですが
はっきりいって、ヘビーな映画です。
物質文明の生みだした、心のつながりのない家庭。
その虚無感を埋めるために
違うベクトルへ安らぎを求めてしまう。
小さなコミューンの大きなストレスをモチーフに
物質文明の行きづまりを描いた作品です。
もちろん、これは今の日本の社会にも
充分言えることなんですが・・・。

ヘビーな内容ではありますが
それをブラックユーモアで包つんで魅せるあたりが
サム・メンデス監督のセンスを感じさせる作品です。


映像の著作権は、映画配給元に帰属いたします。








太陽がいっぱい

■1960年(仏/伊)作品
監督:ルネ・クレマン
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:ルネ・クレマン/ポール・ジュゴフ
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:アラン・ドロン/モ−リス・ロネ
                                             
■ストーリー
貧乏な青年トムは
金持ちの息子フィリップを連れ戻すためにナポリにやって来る
金にモノをいわせ遊びに明け暮れるフィリップを目撃したトムは
怒りと嫉みから次第に彼を憎悪するようになり
トムはついに彼を殺す
身分証明書を偽造してフィリップになりすまし金を手に入れるが・・・


冒頭、トム・リプリー(アラン・ドロン)
鏡にうつった自分に向かってつぶやく・・・
「ジュテ〜〜ムゥ」
おいおい!
ニヤッと笑うくちもとが
タモリばりのすきっ歯であるところは見逃せない。
まぁフランス映画界一の伊達男
アラン・ドロンであるからして
なにをやっても様になるのであります。

魚市場をうろつくシーンでは周りのエキストラの表情に注目!
映画自体を忘れてみんなアラン・ドロンに見入ってます。
裸足に白のビット・モカシンも粋ですな。
「・・・不倫は文化だ」などとほざいている人とはひと味違う。
「上品ぶる奴がいちばん下品だ!」
なんてセリフも誰かしらに使ってみたくなる。

さて、この映画
影のある青年像と真っ青な海とのコントラストで
アラン・ドロンの魅力を最大限に引き出しています。
ストーリーも一級のサスペンスに仕上がってまして
ひとつの罪を隠すためのちいさな嘘の積み重ねで
「・・ヤバイ・・ヤバイ・・」の連続。
最後の大・大ドンデン返しの展開では
ニーノ・ロータの甘く切ない音楽とマッチして
青春映画の代表作といった感じであります。



ところで、マット・ディモン主演の
「太陽がいっぱい」のリメイク版「リプリー」夏公開予定。
アラン・ドロンに対してナゼ?ディモン?
この映画に関していえば、石原裕次郎に対して
ちょっとマシなジミー大西くらいの差があるわな。
結局は当時、知名度の高かったモーリス・ロネを
踏み台にしていったアラン・ドロンに対して
ディモン君を踏み台にしていく若手英国俳優ジュード・ロウの
おいしいどこ取りといった感じですかねぇ。











■オール アバウト マイ マザー

■1999年(スペイン)作品
監督・脚本:ペドロ・アルモドバドル
製作担当:エステル・ガルシア
製作総指揮:アグスティン・アルモドバドル
撮影監督:アフォンソ・ベアド
音楽:アルベルト・イグレシアス
編集:ホセ・サルセド
美術:アンチョン・ゴメス
音響:ミゲル・レッハス
女優達:セシリア・ロス
    マリサ・パレデス
    ペネロペ・クルス
    カンデラ・ペニャ
    アントニア・サン・ファン
    ロサ・マリア・サルダ                                             

■ストーリー
マドリードで暮らす38歳のマヌエラ(セシリア・ロス)は
女手ひとつで息子エステバンを育ててきたが
交通事故で最愛の息子を失ってしまう。
息子の遺品を整理していた彼女は
彼のノートに父に対する想いが綴られているのを発見。
その言葉に触発され、マヌエラは行方不明の夫ロラを捜すべく
青春時代を過ごしたバルセロナに向かうのだった・・・。


この映画、アカデミー最優秀外国語映画賞、カンヌ最優秀監督賞他、世界中の賞を32個もとっちゃってる。
上の写真の人物。毛ムクジャラのおっさんが、この映画の監督さんです。
映像、美術、ストーリー、登場人物、すべてにおいて、繊細、かつ、綿密にうまく創られています。
登場人物は、ゲイにレズになんでもありといったかんじで、さしずめ日本でいえば三輪明宏に岸田今日子に樹木希林ついでに、おすぎが手を組んで
ワッショイ ワッショイとみこしをかついでぐるぐる回っているくらいのパワーがあります。



特に主人公の旧友でゲイの娼婦(アグラード)は注目!で、グレン・クローズがオカマになったような、バル・キルマ−が女装したような、おまけに九官鳥が鳴くような話し口調で主人公と数十年ぶりに再会するシーンでは、鼻血吹き出しながら「キャ〜お久しぶり〜」なんて叫んでます。
しかし本当の見どころは話じたいの内容でありまして、様々な事情をもった女性達が血のつながりのある家族以上に友情、愛情、母性愛をもって助け合う姿をみていると、いつのまにかこの(キワモノ)達がステキな女性、一人ひとりが主人公にみえてきてしまいまして最後にはおもいっきり感情移入してしまいます。
多分、ここ数年の女性中心の映画では最高の作品で間違いないでしょうね。




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