「贈呈合戦」の次にくるもの 
 『詩と思想』10月号展望より 
  
                        
沢田英輔 
 

 

本誌七月号で「同人誌の時代は終わるのか」という特集が組まれていたが、恥ずかしながら僕は、詩を読み始めた当初、同人誌なるものの存在すら知らなかった。当時はまだインターネットに接続してもいなかったので、詩の本といえば文庫本化されている著名な近現代詩人の詩集と、都内の大手本屋においてあるわずかばかりの詩の本、それが全てだと思っていた。 

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ところが、詩の雑誌の「詩誌評」「詩集評」といったコーナーを見てみると、そうやって出回っている詩の本は、実は氷山の一角に過ぎないようなのだ。ほとんどの詩集や詩誌は、本屋に売られずにひそかに詩人の間で出回っているらしい。そしてやっと詩を書く知人が増えてきて、そのうち一人から、実はあれは書き手が自分の詩を読んで欲しい著名な詩人や知人たちに郵送しているのだ、と聞いた時、僕は少なからずショックを受けた。単純に、「じゃあ詩の雑誌の世界に知人がいない自分は、どうやったら読みたい詩人の情報を集め、その人の作品を手に入れることができるのだろう?」と思ったのである。 

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それ以降、僕の中には、このシステムに対する疑問がずっとわだかまるようになった。そこにはたぶん何も知らない者の曲解もあっただろうと思う。ただ、少なくとも今よりもはるかに詩を読みたいという欲求を抱えていた僕にとって、一部の人たちの間だけで詩が回っていて、自分にはそれが手に入らないのだ、という思いは、到底納得のできるものではなかった。その中にはもしかすると自分がものすごく好きな詩があるかもしれない。その可能性が、自分の手の届かないところであらかじめ奪われているような気がしたのだ。 

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ただ文句を言ってもはじまらないので、その後、僕は詩誌評や詩集評のコーナーを使って好きな作品をチェックしつつ、特に気に入った詩誌があったら『現代詩手帖』『詩と思想』などの住所録を使ってその詩人に連絡をとり、直接注文して手に入れる、という極めてオーソドックスな方法をとるようになった。元来が筆不精で、「詩は読みたいけど詩人と知り合いになりたいわけではない」僕のような人間にとって、これはなかなか大変な作業である。

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とはいえ、好きなものを手に入れるためなのだから、そのわずらわしさはまあ許容できる範囲のもの。僕にとって問題になったのは、詩の世界と繋がりが深くなってくるにつれて、まるで知らない人からも詩集や詩誌が突然送られてくるようになったことだ。それも、「謹呈」の小さな用紙一枚を除けば特に手紙があるわけでもなく、いきなり詩集や詩の雑誌がポンと郵送されてくる。 

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これにはちょっと参った。僕は本や雑誌というものは、お金を出して買わないとどうも安心できない性分らしい。本誌七月号ではヤリタミサコさんが素敵な「同人誌不要論試論」を展開していて、「お隣からもらった温泉まんじゅうがおいしくなかったら『わるいけどおいしくなかった』といえばよい」と書かれている。それは非常に正しいのだけれど、悲しいかな、根が小心者のせいか、お金を出さないと安心して文句の一つも言えない自分がいるのである。 

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というわけで、当初、僕は勝手に送られてきた全ての雑誌にいちいち切手でお金を払い、しかも必ず謝礼の手紙まで書いていたのだが、これはあっさりと挫折した。相手もお金を払われることに慣れていなかったらしく、切手を送るたびに相手方からの手紙をいただくようになったのと、手紙を書いたり、その中でいちいち誉め言葉を考えたりするのが単に面倒くさくなったからである。その反動もあってか、今では郵送されてきた詩誌・詩集に関しては我ながらぞんざいな扱いをしてしまっている。詩集というよりは、ダイレクトメールを読む感覚に近い。 

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……『詩と思想』の読者のほとんどは、詩誌や詩集の発行、そして贈呈に関わっている方々なのではないかと思う。誤解されないように付け加えると、僕は詩集や詩誌そのものを批判しているわけでは全くない。人間の感覚が変化して既存の活字媒体への憧れというものが完全に消えうせてしまうまでは、詩誌や詩集に対する憧れというものも存在しつづけ、したがってなくなることもないだろうと思う。 

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僕が批判の気持ちにかられるのは、現在当然のようにまかりとおっている、詩集・詩誌の流通システム・通称「贈呈合戦」のほうである。まあ、面倒くさい云々は個人的な感想なのでおいておこう。何より僕が問題だと思うのは、知人同士の限られたサークルの中で詩集を流通させあっているために、そのサークルの外にいる人が詩を手にすることの出来る確率がほとんどない、ということだ。外にいる人は、自らサークルの一端に加わる以外、その人にとって生涯のベスト作品になるかもしれない詩に、ついに出会えないかもしれないのだ(ついでに書けば、作者にとってもそれはあまり幸福なことではないだろう)。このことのマイナスだけでも、計り知れないほど大きいと思うのだが、どうだろうか。