「きわめてオタクな視点から」 
 スタイリッシュさを意識するってのは 
それ、ポピュラリティの話 
社会性を持ったオタクをスペシャリストという 
 最近の佐々宝砂はホラー詩のスペシャリストであって 
ただのオタクではない 
しかも期待されているんだから三流でもない 
(オタクでいたい気分はわかるけどね。わははっ・木村ユウ) 
 
  
                        
佐々宝砂 
 

 

 おひさしぶりです、佐々宝砂です。フェイズを読んで思ったことなど、書かせて下さいませ。ええと、最初にお断りしますが、「蘭の会」のフェミニン佐々宝砂としてではなく、「百鬼の扉」のホラー佐々宝砂として書きます。

 ご存じのかたはご存じでしょうが、私はマニアックな人間、自分で言うのもなんですが、どっぷりホラー・オタクなのです。それも親子二代のオタクです(母がこれまたすごいSFオタクなのです)。外見キモイと言われたことは特にないですが、趣味がキモイと言われるのはいつものこと、そのくらいではめげません。言うなれば一種のバカです。でも、私は詩のオタクではありません。私は、古典的な狭義の意味合いでのオタクなんであります。二流以下の血みどろホラーをこよなく愛し、カラオケに行けばアニソンと大昔の歌謡曲を絶唱して顰蹙を買い、本棚にはハヤカワ文庫・創元推理文庫・角川ホラー文庫・ハルキホラー文庫・異形コレクション・国書刊行会などの怪奇本が山と並び、その裏側には家族にも見せられないスプラッタ・ビデオのコレクションが隠してあり、30過ぎてもまだ少年マンガ誌4誌と少女マンガ誌3誌を読み、当人はコミケには行きませんが友人から送られてくる同人誌は詩の同人誌ではなく大半がマンガとやおいの同人誌、この文章を打ってるPCデスクの上にはアブラスマシのプラモとチョコラサウルスとケンシロウのフィギュアが飾ってある、とゆー,た,ぐいのサブカル野郎の古典的オタクなのです。

 というわけで、きりがないからこのへんでオタク話はやめますが、私がまぎれもなくオタクであることはおわかりいただけたでしょう。オタクである私に「一般読者の感覚」はわかりません。私にわかるのは「オタクの感覚」のみです。そういうきわめてマイナーなホラー・オタクの目に、今回の座談会やザンボアや詩の世界はどう映っているか?とゆーことが、ワタクシの書きたいことなのでありました(前置き長いってば)。

 で。よーやくに本題なのです。詩人がカッコよく見えるとよいね、とか、詩を書いてるって素敵!って言われる世の中になるとよいね、とか、そんなことが言える詩人さんって、なんつーか、私と人種が違うなあと思います。だって、ホラーでオタッキーなネット詩人である私は、どう足掻いたって俗悪かつキモイです。まあ、人によってカッコよさは違いますし、私とて私なりにカッコよさを求めていないわけではありません。ただ私の目指すカッコよさは、「現実ではまあまっとうに生きていて明るくふるまうこともできないではないが性格は暗く後ろ向きで詩の中では何人もぶっ殺して全世界を何度も滅ぼしてそのぶっこわれた内容を一見俗悪にしかし極めてスタイリッシュにやや禁欲的にまとめる」とゆーよーなヤツなんであります(笑)。そんなもんが一般的にカッコよいと見なされ、売れるよーになってしまったら、世も末です。だから私はカッコよいと言われなくてもいいし、大々的に売れなくてもいい。自称三流怪奇詩人の私は、詩の世界の片隅にちょこんといられればそれでいい。卑下してるわけでなく、謙遜でなく、本当にそう思っています。

 一般的なカッコよさを目指すかたは、はりきって目指して下さい。高尚な芸術性を目指すかたも、がんばって目指して下さい。矛盾することを言ってるように感じられるかもしれませんが、詩に慣れぬ人が読んでも美しく感じられるような、わかりやすい上に洗練された芸術的な詩がネットから現れることは、私自身の望みでもあるのです。ユウさんが、「フツーの詩をちゃんと書けるフツーの詩人がほしいんです。」と書いていらしたことにも私は同感できるんです。フェイズで詩の多様性の話が出ていましたが、実際問題として、詩誌に載っている詩にもネット詩にも、多様性はあまり感じられないように思います。いえ、正しく言えば、多様性が生きていないように感じられるのです。

 ホラー・オタクな私は「フツー」じゃないけれど、とゆーか、私が「フツー」じゃないからこそ、詩の世界に「フツー」がほしいと思います。食物にたとえるなら主食がほしい。ごはんがほしい。今の詩の世界にはごはんがなくて、珍味と薬味ばかりがあるような気がしてならないんです。キャビアだのカラスミだのの珍味は美味ですが、そういうものだけではおなかはいっぱいにならないし、ワサビやショウガだけでは辛いばっかでうまくもなんともありません。まして蜘蛛食いみたいなゲテモノ(私のことです)だけでは、腹を下すのがオチです。多様性が生きていない、というのは、そういう意味です。ゲテモノでも通好みの珍味でもないごはんにあたるような「フツー」、一般的に美味なもの、「フツー」のカッコよさ、そういったものが詩の世界には必要だと私は考えています。

 でも、だからって、私にできることはないんです。

 かつて私は、ユウさんからザンボアのスタッフに誘われましたが、結局何もできないまま終わりました(ごめんなさい)。ユウさんにはいろいろ理屈をつけて言い訳しましたが、心の中にはまだわだかまりがあります。やれることはやるべきだったのじゃないかって思います。でも、やっぱり、私のようなものにはザンボアの手伝いはできません。今回フェイズを読んで、その思いを強くしました。私はザンボアの方針に反対はしていないし、ユウさんの意見にもほぼ賛同しています。でも、ユウさんの仕事に関して私が手伝えることはほとんどないんです。なぜなら、ユウさんが「フツー」の詩を「フツー」の人に提供しようとしている、言うなればごはんをつくろうとしているのに対し、私はホラー・オタクの俗悪三流怪奇詩人で、私が書きたいのは蜘蛛とか血まみれ惨殺死体とか昆虫目玉のエイリアンとかそーゆーゲテモノなんですから。

 繰り返しますが、私はどっぷりホラー・オタクです。ですが、頼まれれば、どーゆータイプのどーゆーテーマの詩でもそれなりに書く自信があります。フツーなフリくらいできます(笑)。長年日常生活の中でフツーのフリをしてきましたからね。相田みつを風の贋作や、銀色夏生風ポエムもどきも、書けと言われりゃ書きます。まるで趣味でない恋愛詩も、主義に反する思想の詩も、原稿料をいただけるならば喜んで書きましょう。でもでもでも、そういうことは私の趣味ではないのです。嘘を書くわけではないし、いくら隠そうとしても詩には私の主義主張が現れてしまうでしょうから、趣味でないタイプの詩を書いても、心にもないことを書くことにはならないでしょう。でも、原稿料ナシでそういうの書く気にはなれません。フツーなフリは体力を消耗するので見返りがほしいです(笑)。

 批評に関しても、ちょっと詩と実状は違いますが似たようなことが言えます。私の趣味に合わないけど詩にとっての「ごはん」になりうると思われる詩を一生懸命誉めたり、こんな詩大嫌いだけど技巧的には巧いと思う詩に好意的な批評を書いたり、そういった批評がコミュニケーションにつながっていったりすることが、いーかげんめんどくさくなりました。だから私の批評(蘭の会まなコイをご参照下さい)は、最近とっても趣味に走っています。趣味に走った批評自体はとても好きですし、梨花子もそれを許してくれるようですから、まなコイ批評はこれからも続けてゆくつもりですが、それが詩のためになるかどうかはクエッションです。私の書いてるのは、ホラー&少女趣味的な視点にもとづいて書かれた偏向的な読み物としての批評(ちゅーか雑感エッセイ)ですから。

 詩のためになる批評は、詩にとっての「ごはん」になりうる詩を一般に対して紹介してゆく、雑誌の映画評のようなものでしょう。それはわかってる、わかってるけど、私には書けないんです。これが最後とゆーつもりでもいちど繰り返しますが、私はホラー・オタクなんですもの。『風と共に去りぬ』は名画ですが、ホラー・オタクにとってはそんなものどうでもよくて、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の方こそが名画だったりします。でも、大きな声でそんなことが言えましょうか? 映画全体のために批評ができることは、みなに愛されてきた名画をコンスタントに紹介し続けること、新しい映画や埋もれた映画の中から優れたもの面白いものをピックアップして紹介してゆくこと、です。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』みたいな映画は、大事なことが済んだあとで、こそっと小声で紹介するだけでよい。それが映画のためにはよいのです。

 詩についても同じこと。詩のために批評ができることは、みなに愛されてきた名詩をコンスタントに紹介し続けること、新しい詩や埋もれた詩の中から優れたもの面白いものをピックアップして紹介してゆくこと、です。でも、私、原稿料をもらえるとしても、自分の好みを殺して詩のためになるような批評や紹介を書くことはできません。書くべきだと思うけれど書けない。無理なんです。フツーの詩をフツーの視点から評価する批評は、私の仕事ではないように思います。ホラーな視点での批評がほしいときか、ホラーな詩を批評してほしいときだけ、批評屋としての私を呼んで下さい(もともと私は怪奇幻想&少女趣味専門の批評屋です)。フツーの詩を愛する人が、フツーの人のフツーの詩を持ち上げて下さい。それこそが詩の世界に必要なことです。でも私にはできないことなんです。ごめんなさい。努力はしてみたのだけれど。

 私は常に引き裂かれています。詩とホラーと、ふたつの舟にまたがって立ちながら。……詩のためを考えると、自分のホラー趣味をあるていど殺さねばならない。ホラー趣味に走ると、あんまり詩の一般的人気のためにはならない……バランスをとるのはなかなか難しいです。詩の舟がホラーの舟から離れてしまったら股が裂けるから、そのときにはとっととホラーな舟の乗員になりきろうと考えている私は、詩の舟にとって無責任な輩かもしれません。

 今んとこ片足だけとはいえ、私は基本的にホラーの舟の人間です。それを誇りに思っています。ホラーを愛している、ホラーを信じていると言ってもよい。不健康で残酷でまっくらけで血ヘドに汚れていて人格的にひんまがったやつばっかいるホラーな世界にいると、私はおうちに帰ったよーな気分になります。気がねなく血みどろどろどろになれます。でもすごい先輩方がたくさんいらっしゃるので、私は大きな声は出さず片隅のファンクラブにいます。何にもお金にならなくても、いちファンとしてホラーの舟にいてかなりしあわせ(笑)なのです。

 教科書に載る詩が少なすぎる、と言います。でもさ、考えて下さいよ、ホラーなんか、教科書に載ることはほぼあり得ません(強いて言えば中島敦の「山月記」くらい)。それでも私は、創元推理文庫さまのおかげでホラーの味を覚え、国書刊行会さまのおかげでソノ道のものになりました。スティーブン・キングの流行と、『リング』の映画化と、角川ホラー文庫発刊のおかげでホラーもかなり市民権を得ましたが、ホラーは今も昔もあんまり売れてはいません。キングとリングは例外です。ホラーはエロと並んで受けねらいみたいに思われがちですが、実際には、理解されにくい、迫害をうけやすい、ちっぽけな弱い分野です。戦争にでもなりゃ真っ先に潰されます。だから私は、猟奇的な事件があるたびに、その事件ゆえにホラーが迫害されるのではないかとおそれおののきます(昔話ですが、宮崎勤の事件の折には、実際にホラー映画のTV放映が自粛されました)。

 しかしホラーな詩を書いてもホラーな人は怒りません。ホラーな人々は、意外と詩に理解があります。詩もマンガも映画も文豪の作品も、同じホラーというまな板にのせてきちんと評価します。詩も小説もこきまぜた怪奇幻想系アンソロジーが、商業的なものとして多数存在します。私が本当によいホラー詩を書いたら、ホラーな人々はそれなりに評価してくれるはずだ、と私は信ずることができます。私がそれほどのものを書けずにいるだけだと信ずることができます(私のホラー詩の代表である『百鬼詩集』の大半は、詩としてはどうかしりませんがホラー的にはまだまだゴミです)。

 私は詩の舟に片足乗せてもいるのだけれど、ちっとも詩の舟の人間になった気がしません。世間に誇れる詩はたくさんあるのに、どういうわけか詩を誇りに思えません。詩を愛してるはずなのに、詩を信じることができません。詩の舟にいると私には居心地が悪く、ほめられてもけなされてもお尻のあたりがむずむずします。近所迷惑な気がして大好きな血みどろもふりまけず遠慮しているわりに、大きな声出していろんなことを主張しています。そしてどうもしあわせじゃない気がします。そもそも、いちファンとして詩の舟にいてそれなりにしあわせ、とゆー人はいるのでしょうか。そのような底辺を支えるファンを、詩は育て得るのでしょうか。

 薄味のホラーや、「ほんとにあった怖い話」の類や、俗悪きわまりないちゃちな三流ホラー映画を、ホラーな人々は許容します。眉間に皺を寄せつつあるいは笑いつつ楽しみます。ホラーを愛するという根っこの部分が、それら俗悪なものにも共通することを知っているからです。それと同じように、深さのない詩や、私の気持ちを書きました的なポエムや、凡庸なアフォリズムのような、洗練されていない詩を眉間に皺寄せつつあるいは笑いつつ楽しむことが、なぜ詩の世界の人にはできないのでしょうか。それが私には疑問でならないのですが、かくいう私も、つまらん詩を愛することがなかなかできないでいます。つまらんホラーは愛せるのですけれど。

 詩は、もしかしたら落魄貴族みたいなものかもしれません。経済的には破綻し、武士は食わねど高楊枝で名誉だけが重んじられているように思います。もう失うものはあまりないのだから、なりふりかまわないで詩を売りゃあいいのに、お互い噛みつきあったってしょうがないのに、と私は思います。そんなことしてると、確かに詩の世界から才能が逃げてゆくでしょう。他の舟に乗り換えることができる人は、どんどん乗り換えてゆくでしょう。

 私にたいした才能があるとは思えませんが、私には、他の舟に乗り移れる多少の可能性があります。今だって片足はホラーの側にあるのですから。私は、詩の世界に深入りすればするほど、自分に流れるホラーの血を自覚します。詩の世界にいるとホラーを感じることがあんまりできませんが、ホラーの世界だけにとどまっていても、充分に詩を感じることができます。私は、ともすれば詩から離れてゆきそうになる自分を発見します。芳賀梨花子や宮前のんや山田せばすちゃんといった私の友人たちが詩の世界にとどまっているので、どうやら詩の世界にいられる、といったところです。

 近ごろ私は、冷めた目で詩の世界を見ています。私は、私の夢が、H氏賞をとることでも、詩誌に連載を持って原稿料をもらうことでも、詩のボクシングで優勝することでもない、ということに今さら気づきました。かといって私は権威を拒みません、私が詩の世界で権威になることでさえ拒むつもりはありませんが(そんなこたないでしょうけど←笑)、私の夢は、ホラーの舟の片隅にあるささやかな詩の部屋に、私の名前を刻みつけることです。それが現在の私の目標です。ホラーの世界に行ったきりになったからとて、私は詩を忘れはしません。私はいつまでも三流怪奇詩人を名乗ってホラーな詩を書き、ときどき詩集を買い、ネットで詩を読み、たまにその感想を書くでしょう。私が詩に対してできること、やりたいことは、それくらいのことしかないように思います。