TEXT:耀野口ミナリ

         
   

 遠雷-2 「『シロザキ』という男」(Jul 16. 2000 Sun)
・ ヴァニラ・シュガー(Aug 8. 1999 Sun) new

         
   
   
 

遠雷-2「『シロザキ』という男」(Jun 16. 2000 Sun)

ビルの向こうはますます暗くなり そのうちに雨が降り始める
すぐに本降りになるだろう
まだしばらくこの店から出られない
と思ったころ
「シロザキ」という男が桂子の電話を鳴らす
ポップな電子音に呼び出されて
受話器に耳を当てた桂子の表情が とたんに明るくなる
シロザキ
しろざき 白崎 城崎 シロザキ…
どの字を当てるのかいまだに知らない
とにかくシロザキ

一月ほど前から桂子の話によく出てくるようになった男
会えば何かご馳走してくれて
何でも好きなものを買ってくれる男
お友達なの と桂子は言う
名前を聞かされたことは何度もある
実物を拝んだことは一度もないけれど
写真を見せられたことなら一度だけある
ちょっといい生活をしていそうな
派手な雰囲気の中年男だ
どこかの会社で部長をしていて
桂子に仕事を紹介すると言っていた男だったはずだ

君は働いていないのか?
そんなのはだめだ、と説教をして
自分の勤め先の部署に
桂子をアルバイト採用しようとしたという話
簡単な事務
電話番とか コピーとか お茶汲みとか
今いるパートのオバチャンがもうすぐ辞めるから
どうせなら次は若い子がいいよ とか何とか
桂子も乗り気だったはずなのだが まだ実現していない
いつ実現するかもわからない

このひとには 十歳年下のヒステリー気味の奥さんと
私大の付属幼稚園に通っている娘さんがいる
それから仕事中に外回りと理由を付けて会いに行く浮気相手が
二人いる
もちろん奥さんの癇癪の種
シロザキは桂子にはよく家族の話をするらしい
奥さんとの喧嘩の話が一番多い
だけどその次は必ず溺愛する娘さんの話になる

 娘さんがヴァイオリンを習っていること
 その発表会が近いこと
 衣装を買いに行ったデパートで
 ドレスの色の意見が合わずに人前で奥さんと大喧嘩をしたこと

「喧嘩ばかりなんだ 結婚当初からずっとそうなんだ
 ものすごくわがままなんだ 
 おまけにヒステリー気味でね
 年下だからって僕が甘やかすからいけないんだろうね
 あまり言い争いをしているところを娘に見せたくないんだ
 まだ五歳なんだ 賢い子でね すごくかわいいんだ
 今度は英語を習わせようかと思っているんだ
 個人レッスンを付けてくれるネイティブの先生が近くに住んでいるんだ
 その先生というのが金髪の美人なんだ 子持ちだけどね
 それでまた怒るんだあいつは
 あの先生が目的で英語を習わせるんだろうと怒るんだ」

 

シロザキは桂子のスカートの中に手を入れたことがある
キスをしたこともある
桂子はシロザキからの連絡を待っている
けれど最近は連絡よりも無言電話がよく入る
奥さんが旦那の電話に入っている番号に手当たり次第に入れているのだ

溶けた氷で薄くなったアイスミルクティーを
先を噛みつぶしたストローでかき混ぜながら
桂子はまだシロザキ氏と話をしている
私が聴いているのにも
店員が「オシズカニネガイマス」と睨みつけているのにも頓着しないで
白い二の腕をふるわせてくすくすと甘ったるい声で笑う

そしてわたしはやっぱり「シロザキ」に当てる文字を知らない

             
         
                 
           
  ヴァニラ・シュガー( Aug 8. 1999 Sun)
   

カバリエが歌っている
あの声で ラ・トラヴィアータの第一幕を
「花から花へ」と優雅に舞い飛ぶ蝶々のリズム
テンポ速めの三拍子で歌っている
桂子も歌っている
連絡もなくやってきて
勝手にCDをかけ
歌いながら
割れた爪をヤスリで円く削ると
パール入りのクリーム色に塗り上げ
それが済んだらフリーザーからアイスミルクバーを抜き出し
生乾きの指先で器用に包みを開ける
CDもヤスリもマニキュアもアイスもわたしのものだけれど
ひとことの断りもない
デッキの中でわたしの再生スウィッチを待っていた
ダレッシオのインディア・ソングも
さっさと取り出されてケースに片付けられてしまった

手首をねじり ネイルの仕上がりをチェックしながら
桂子は頬をすぼめて熱心にアイスをしゃぶっている
そのあいまに鼻歌を歌うので
口の端から溶けたミルクがこぼれそうになる
今日の桂子は上機嫌だ
底の底までダウンしていたのが嘘のようにアッパーだ
この連日ひどく暑いのに風呂にも入らず
昼間から部屋にこもり
ドライウォッカのボトルを開けていたのが二週間前
それからもちろん煙草と精神安定剤
理由は一応聞いてみたけれどよくわからなかった
グズグズと泣きながら
結局誰も自分のことなんか愛さない 愛するわけがない とか
前にも聞かされたことをリピートするだけだ
これでは何もわかるわけがない
とりあえずの便利なセンテンスで
説明のつかない感情をアウトしているだけなのだから
だけどこれはいつものことといえばいつものこと
ここ数年の桂子はハイとロウの振幅が激しくて、しかも小刻みだ
ロウな状態の桂子はわたしのことを軽蔑するようになる
彼女に言わせれば
わたしがそもそも正気でいること自体が信じられない
わたしがアルコールもタバコも薬もなしで生きているのは
よっぽど神経が太く出来ているか
そうでなければ
「所詮その程度」の経験しか生きていない証拠。らしい

向いの家の庭では
ピークを過ぎたノウセンカズラが瓦屋根に蔓を伸ばしている
その下でその家のナナ、という名の柴犬が
さっきからずっと吠えている
懐こい子犬で 人が来ると誰にでも尻尾を振って近づくのだが
一匹になって誰にもかまってもらえなくなると
とたんにキンキンと吠え出すのだ
とても番犬にはなれない

カバリエがヴィオレッタを
ベルゴンツィがアルフレードを歌うラ・トラヴィアータが
この夏は彼女のお気に入りなのだ
どう考えても
ヴィオレッタ・ヴァレリィ(=マルグリット・ゴーチェ)よりも
一見お嬢で中身はコギャルの
マノン・レスコーのほうが桂子には合っていると思うのだが
それを言ったら桂子は怒るだろうか
それとも、その瞬間ラ・トラヴィアータをやめて
マノン・レスコーを聴きだすようになるだろうか
(どうもそうなる気がしてならない)

桂子が歌っている 鼻歌で アイスを舐めながら
昔、クワイヤでヒムを歌っていたことがある桂子は
鼻歌まで裏声だ
クワイヤでは皆で丈の長い白いスモックを着て
天使の格好で歌うのだ
クワイヤ・サークル紹介のスナップの中段右寄り
まだ十八か十九の桂子が神妙な顔つきをして
両手に譜面を掲げたポーズで写っているのを見たことがあるが
今日の桂子は真夏のワンピースにノーブラという格好で
それでも同じ人間なのは当然のことだ
服の下で薄く乳首を尖らせ
下着を着けず出歩くスリルがどうとか話しながら
口角から溢れるクリームを拭う桂子の指と舌を
わたしは眺めている