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 ●フェイズを読んでの感想 ワタナbシンゴ 
●カッコいいもの 大椛輝志
 
●詩の読者としてのお願い 春野かおり 
●リーディング・シーンでの私の印象 宮前のん 
●ごく普通のことだけど 俊
 

 
 

フェイズを読んでの感想 ワタナbシンゴ 

はじめまして。ワタナbシンゴと申します。
フェイズの公開座談会とても楽しく拝見させていただきました。

今回この公開座談会を見させてもらって
読者として感じたことを書いてみたいと思います。

まずはじめに思ったことは
この座談会自体、詩を巡る状況にかなり興味がある人が読まなければ
何のことだかさっぱりわからないだろうなということ。
単純に読み物として
粘り強くなければ読めないな、
すなわちハードコアに詩が好きなひとでなければ
粘り強くなれないから読めないな、
それは、zamboaのコンセプトである読者を意識したというのとは
ちょっと離れてしまっているのではないかな。
内容以前にもっと見せ方として工夫すべき点があったのでは?
と思えてしまって
これ友人とかに薦めてもちょっと??だろうなと感じてしまったのです。
いったい誰に向けて放たれた座談会の言葉だったのか。
ちょっと内輪ですら混乱気味なところが見えたのは
読者に対して甘いのではないかと。
もっとバリアフリーが必要だったのではないかなと思いました。

それは単純に、詩を巡ること云々の前に
議論の進め方として
まず、議事進行役が議事進行役に徹するところからはじめなければ
今回のように議論がどこに向かうのかわからなくなってしまい
読者を混乱させてしまうという点。
せめて、そのあたりだけでも
ひとり自分の意見を述べずにうまい交通整理をできるひとがいたら
もっと有用な話が引き出せたのではないかなと思いました。

具体的な議論の内容に関しては
上田假奈代さんが「現場にいるわたしのきもち」
で書かれていることがほぼすべてじゃないかと。
ここにきちんと実践されているひとがいて
自分の尻を自分で拭いているひとがいるじゃないかと。

あと100人、彼女のような活動スタイルでやれる詩人が出てくれば
きっと詩を巡る状況は変わるだろうなと感じます。
不幸なことは、彼女がマネイジメントまでも
自己管理しなくてはいけないということですが
議論されるのはこのあたりの状況ですよね。

それでひとつ思ったことは
NPOとか作ったらどうですかね。
詩全般に関するボーダーレスな活動を執り行なうような。
「詩が読まれること」、詩の伝道を活動目的にすれば
そこでできることにはいろんな可能性があると思うんです。

リーディングのイベントの企画や
文書で書かれている詩人の紹介も
そうですが
ぼくは自発的に詩を読む人口を増やすことが
一番詩にとって幸福なことじゃないかと。
今いる読者の読みたい詩を提供できるメディアを確立させることもそうですが
大部分の人にとって詩とはまだまだ未知の領域だと思うんです。
音楽、映画、写真、絵画とかに比べて、
やはり詩はマイナーですから。

だからなりふりかまわずやることが大事ですね。
詩の伝道師となろう。
ということで
ぼくなんかは假奈代さんが書かれている
病院朗読や、高齢者向け詩のワークショップなどには
とても大きな詩の可能性を感じます。

あと小中高生に対する詩のデリバリー授業とか。
身体的にそういうところに詩が入っていければ
ずっと詩が読まれる可能性は大きくなって
あたらしい詩が生まれる可能性も大きくなると思うのです。

音楽なんかは黙ってても聴こえてきますが
詩は黙ってては聴こえてきませんから
黙ってても聴こえてくるような環境を作るため
もっと詩の持つ可能性を広くにらんだ上での
NPO活動なんかが出てくれば面白いと思いました。
そういうのをこの座談会に参加したひとたちなんかが
マネイジメントもできる組織としてやりだせば
とてもすばらしいと思うのですが。

ちょっと取り留めない文章になってしまいましたが
こんだけ詩を愛している人がいること、とても心強かったです。
次回は詩をなんとも思っていない人と詩を愛している人の
対話なんかが読めたら面白いだろうなと思います。
きっとそういうところから見えてくることのほうが
詩を巡るいまの状況への答えとしては有用なのではないかと感じました。
 
 
 
 

カッコいいもの 大椛輝志(オーカバテルシ)
 
いとうさんの発言で。
「SMAPが詩集を出したら・・・」
以前、詩の個展手伝いやってた時に僕も同じ考えがよぎりました。
「キムタクが詩集出したら売れるやろうなって・・・」

で、それはいいことか?悪いことか?
結論。どうでもいいこと。僕にとっては。
良ければ「お!いいやん、なかなか!」合わなければ
「む〜ん・・・、でもファンは好きかも?」それが真実。

女性向けのファッション誌で窪塚くんが詩に対する想いを語ってました。
谷川俊太郎が好きみたい。王道ですね(僕も好きです)。
特に目新しい何かを語ってたわけじゃないけど、熱かったです。
カッコイイと思いました。

でもね、日本一有名な卓球プレイヤーである彼のこんな発言でね、
「詩」ということばに再会する人、多いんじゃないかな?
そして、彼が「詩が好きで、詩を書くのも好きだ」なんて言った日にゃ。
間違いなくファンの人は「窪塚くん〜カッコイイ〜」でしょ?

前述したものとは違う女性誌(これもファッション誌)では、
「日本語のことば」の特集でした。
ベストセラーになった「声に出して〜日本語」、「あいだみつお」。
普通はここまでですよね。でもいくつか、いわゆる普通の詩人の詩
(こんな言い方が成立するのが、詩の不思議さ)も紹介してました。

案外、楽観的なんです。
なんかね、環境は確かに変ってきてる気はしますよ。
「詩の世界」、じゃなくて「詩をうけいれる世界」の方が。
そしてそれは力みがなく、自然に変ってると思う。
「詩をなんとかしなきゃ!」なんてこれっぱかりも考えてない気楽さで。

だから、何もしなくていいんじゃないか?なんて考えてるわけじゃないです。
今がいろんな意味でチャンスなんじゃないかと、ね。
昔は洋楽聞いてるってだけでカッコイイ時代が確かにあった。
でも今は、それだけじゃ話がすすまないでしょ?
「洋画が好きです。邦画はだめだね。ハリウッドみたいに予算もないし」
なんて真顔で言ったら恥ずかしいかも、今は(笑
みんな、音楽でも映画でも。各人が好みのいろんなものが溢れてることに気付いてる。

「俺はこれが好き。おまえはこれが好きなん?
 どんなんか教えて〜。どういうところがいいの?」
 これ音楽や映画では普通の会話。
 これを詩でやろうというのは無理なんでしょうか?

いや〜、そこまで来てる、言い過ぎならそこに近づいて来てるような気がする。
「詩、書くんです、僕」に対する反応がこの5年くらいで全然違う。体験上。
5年前3割、が今は8割です、
「どんなの書いてるの?」「読みたいな〜」って返してくれる人の数。

だから、チャンスなんです、やはり、今。

詩、っていってもいろんな詩がある。
カッコイイものもたくさんある、ってことを知ってもらういいチャンス。
そして、「詩に詳しい人」「詩を書く人」が
「あ、なんかすごいね」、「なんかカッコイイね」って言われる日も遠くないような。
かなり暴力的な楽観ですが(笑

最後に、やはり詩、詩人、またその行為は「カッコイイ」ものであって欲しい。
カッコイイってことば連発してますが、もちろん見た目の(また、男性だけに焦点をあてた)モノではないことだけを一応お断りしておきます。
どの世界でも軽妙さゆえにカッコイイものもあれば、マニアックさが
カッコよさにつながってるものもある。受け取る側が勝手に判断するものですもんね。

そういう意味での「カッコイイ」ものに詩がなれるのか?
僕はメチャメチャカッコイイと思ってますよ、「詩を書く人」。
もちろん、僕を含めてですが(笑

 
 
 
 
 
詩の読者としてのお願い 春野かおり

こんばんは、春野かおりです。
ひとことどうしても言いたくなってこのメールを書いています。
わたしは、詩を読むのが好きです。最近、ちらちらと詩をかきはじめましたが、ずっと、読者として 詩に接してきました。

一般の人の中では、詩に比較的熱心な方だと思います。でも、正直言って、インターネットをはじめるまで、こんなに詩を書く人や読む人が(多くは重なっているそうですが)いるなんて、思ってもみませんでした。いい詩が、こんなにあるということも。

だって、本屋にいっても、詩は置いていないんですもの。一部の著名な詩人のものが置いてあればいいほうです。詩をよみたいと渇望している、必要としている一般ピープルに、多くの詩がまったく届かない、という現状を、どうしたらいいか、考えてください。

みんなが詩を求めていない、ということはないと私は思います。いま、学校などでは、読みきかせが多くの大人たちによっておこなわれていますが、そこでは、詩や言葉遊びも たくさん取り上げられています。子どもたちは詩を、結構楽しんでいますよ☆

また、周囲を見たりアンケートから感じたのですが、多くの人たちは、教科書で詩に出会ったのではないでしょうか?何かの折に、それらの詩を、なんとなく口ずさむことって、けっこう普通にあると思います。問題は、それ以降です。学校から離れると(子どもじゃなくなると)、詩に触れる機会が、極端に少なくなってしまうこと。おとなになった途端に、「それは自己責任だ」とでもいうように、本人が相当努力しなければ出会いにくいということ。小説などに比べると、一目瞭然ですよね。

わたしは、たまたま家に何冊か詩集が置いてあって(これは親の趣味ですね)、人生の節目・節目にとても助けられました。だから、他にもあるはずだと思って探したけれど、本屋や図書館をまわっても、出会える詩は本当に限られてしまう。それは、流通の問題だからって、簡単に切らないでほしいのです。

これじゃあ、極端な話、詩は、日本語学習の教材としてしか、存在していないということではないでしょうか? いいのかな?こんなことで。

いろいろなイベントも素敵だし、否定しないけど、いける人ばかりじゃないし、手軽ではないと思います。

インターネットをはじめるまで、とても渇いていた読者として、こうした現状打開について詩人としての立場だけではなく、読者の立場にたって、もっともっと議論してほしいと思います。
 
 
 
 
リーディング・シーンでの私の印象 宮前のん

 
こんにちは、宮前のん(みやさきのん)です。

座談会のおかげで朝の3時半まで蘭の会の発起人3名で議論ですよー(笑)
面白かったです。

ええと、今回のザンボアでの議論のテーマは
Zamboaとして提示したいのは
「いかに同人ではない一般の読者を、詩が獲得できるのか」でしたよね。
梨花子と佐々宝砂は
「マニアックな読者を獲得することだ」と言ってました。
たとえば童話好きの子を童話詩というジャンルを作って呼び込む。
あるいはSF好きの男の子をSF詩というジャンルを作って読ませる。
詩人がジャンルを名乗ってしまえばよい、そこにマニアックな読者がついてくる
だろうから、という話をしていました。それは座談会の掲示板に書かれている
と思います。

私はリーディングイベントのレポートをずっと書いていまして、それは蘭の会に載せてあるので省略して、現場で感じた事を書きますね。

これを言っちゃうと正統派の詩人さんからブーイングがくるかもしれないんですが、(実際、以前○○○というところで相当叩かれました(笑))詩が詩として活用されていない部分に、詩の可能性があるという気がしています。リーディング・シーンでは次のような詩の活用の仕方を私は見てきました。

1)詩が詩としてちゃんと観客の中に届いている場合
2)詩が、詩の世界に誘い込むための言わば取っ掛かりのような役割を果たしている場合
3)詩が、自己の癒しのきっかけとして利用されている場合

1)詩のリーディング・イベントの場合、よほどの場合を除いて8割以上が同人の観客だと認識しています。正確な統計を取った訳ではありませんが、受け付け等をさせていただいていた印象で。詩人さん同士がお互いのイベントに義理買いで行くパターンが多いように思います。でもこういう人達は、テキストの内容を受けとめ、そのイメージを頭の中で楽しむ事を知っています。詩の言葉がちゃんと詩として活用されている瞬間です。あるいはイベントの開催会場によって客層がある一定の偏りを示した場合に詩が詩として活用される瞬間があります。具体的には、以前、詩マーケットというのを寺西さんが芸術大学の学園祭の一環として開催された時の事です。芸術に造詣が深い人達が多く集うその空間では、詩は芸術の一分野としてすんなりと受け入れられ、ポストカードに書かれた詩や詩集が自然に手に取られ、飛ぶように売れていました。

2)でもイベント内容がコラボレーションの場合は、ちょっと印象が異なります。コラボレーションとは御存じのように、意外性のあるもの同士を同時存在させることで新たなハーモニーの芸術を醸し出す事ですが、たとえばダンス&詩とか絵画&詩などですね。そういうイベント会場には、今まで詩なんか手に取ったことのない人が観客としてやってきます。ダンスファンや絵画ファンですね。イベントが終わって打ち上げにあると、そういった人達から必ず質問されます。「なんで詩なんてやってるの?面白い?だって詩なんて誰にでも書けるでしょ」と。で「そんなことないよ。自分の感情をそのまま文章にするのを詩だと思ってるんだったら、そりゃ簡単に書けるかもしれないけど、絵画と一緒で、表現するにはある程度の技術や技工も必要だよ。絵を書くように詩を書く人もいるよ」と説明すると、すごく興味を持ってくれます。そういう人達の中には、次のイベントから頻繁に顔を出してくれるようになったり、自分でも詩を書きはじめたなんて人もチラホラいて、この場合、はじめは詩以外のカップリングの相手の方に興味があったのに、イベントに来たせいで詩の世界にのめり込んだというパターンです。詩が詩として活躍したわけではなく、興味をひくための取っ掛かりとして活躍した場面だと認識しています。

3)上記のイベントとは全く関係のない所でも、詩は活躍しています。以前にいとうさんが詩学のネットタイムズでも紹介していましたが、上田假奈代さんの病院朗読というのがそれです。蘭の会にレポートがあります。あのイベントでは、詩は一種のステミュレーター(刺激剤、発火剤)として活躍しました。昔の古い歌謡曲の歌詞や、宮沢賢治のアメニモマケズなんかを朗読してあげると、一様に懐かしい顔をして、昔話を患者さんがはじめるのです。詩韻律(っていうのかな)は歌と一緒で一定のリズムを持っているから、特定のリズムを持っている詩や歌は記憶に残りやすいんですよね。これは医学的な実験データも論文で散見できますし。で、その歌詞や詩に想い出を揺さぶられて、それを詩人に話す事で、自己の癒しにしているという形であったわけです。介護保険導入後3年が経過した高齢社会において、この手の詩の可能性は無限大ではないかとさえ感じました。ただ商業システムとして確立されていないので、ボランティアとしての需要はあっても、商売としてはどうなるか未知数だと思うのですけども。でもたとえば、最初は刺激剤でしかなかったとしても、詩人さんが持ってきた詩集を手にとったり、病院や老人ホーム内で詩の学校などを開催したりっていう方法はいくらでも模索できると思うのです。そしたらどんどん、詩を詩として活かせる場面が増えていくように思うのです。

要するに、詩を詩として活かす方法のみ考えていると、閉塞へとつながっていくかもしれないけど、他の活用法を容認できれば、つまり「きっかけとしての詩」や「癒しとしての詩」を認めれば、その可能性はもっと広がるような気がするってのが、私が現場で感じた印象です。

 
 
 
ごく普通のことだけど 俊
 
bbsでもよいかなぁって気もするんだけど。

私が詩を書き始めたのは、まぁそれなりに切っ掛けがあったのだけど
その後も詩を書き続けたのは、自分の読みたい、それも声を出して読みたい詩が欲しかったからです。
中学生の頃、私は詩をよく暗唱していました。
気にいった詩を声を出して読むのが大好きでした。
何度も何度も。
今でもそういう子はいるのではないかしら。
「声を出して読みたい日本語」なんて本がベストセラーを取れるのです。なのに、それに一番近い言葉が溢れているはずの詩集をどうして読者は手にしようとしないのでしょうね。

以前、FPOEM でこんな書き込みがありました。
『「○○」という番組の中で、ある詩が朗読されていたのだけれど、どなたか御存じありませんか。』
結局レスポンスは無かったと思います。
だって星の数程詩はあるのですもの。そして、それらは殆ど人に知られていないんですものね。そして探し出す手立も無い。私はザンボアで詩ネマというものを初めてみたのだけれど。
例えばああいうものが、毎日5分でいい、ちいさな子供達が毎日見る教育テレビなどで流されてくれれば..なんて思います。要は詩に触れる機会が、あまりに少ないんです。だから詩は一部の人の特別な物に成ってしまう。ごく普通の絵本のように、子供のそばに置いておく詩集ってないですものね。
それなら絵本を買う。
そして、例えば病院の待ち合い室でちょっと時間潰しに成るような集もない。わたしもそういう時は、何か面白い事書いてある雑誌を手にとりますからね。色々な場面で、ふっと手に取る物は詩集ではないんです。構えて読まなければならないものを、そういう時にはけっして読まないもの。それこそ芳賀さんがおっしゃっていたように、恋愛小説と同じ棚に詩集があったら自分が恋をしていたら、多分私は其の詩集を手に取りますよ。