■詩あるいは詩人と社会とのかかわり 詩の「公」を考える時にNPOという選択肢は重要だと考える。僕は詩のようなモノを書 (NPO法人伊勢志摩NPOネットワークの会 http://www.po-npo-n.com ) うまく言えないんだけど、 それは、「詩がいきいきと生かされ響きあう社会づくり」なんだと思う。今回の座談会はひとつの混沌の中から現状を照らし出している、よくも悪くも。そこからあるベクトルを生み出すには、どうしてもシステマチックな「参加のデザイン」が必要なんだと思う。 上田假奈代さんが取り組んでおられる高齢者の方、病院での朗読などの展開は、まさに贈与としての社会活動としてNPO的だと思う。ボランタリーなNPOとの協働が可能だと思う。 そしてその合意に沿った理念を行動指針にまでダウンし優先順位をつけ、個々の具体化にまで持っていって始めて、詩が社会にとってひとつの「公」として寄与しばじめると思う。多様性を認め合いながらあるおおまかな方向を共有し、ゆるやかに連携する、そんな感じです。 今、社会のセクターとしてNPOがその役割を重要視されるようになって来た理由のひとつとして、資本原理主義とも言うべきラジカルな市場主義へのやわらかいアンチテーゼとして、取引主体の経済活動よりも、想い、を核にした「贈与」の関係を営む「経済活動を含む社会活動」に価値を見出すこと、欲望によって麻痺しがちな「公」のひとつの復権、がNPOというコンセプトには見えるからではないか、と思う。詩は、この激動の時代、地域主権がなぜか中央集権的にすすめられようとしている僕たちの足元、破綻しつつある資本主義社会の各々の地元から、政治活動ではない、市民活動のひとつとして機能する側面も備えるべき時なのではないか? 今僕は、あるまちのNPOのいきづくまちづくりのためのワークショップをマネージメントしているんだけど、各々が自分たちの活動に対する自負で一歩もゆずらない展開は、本座談会ととてもよく似ているのだ。ほんとうによく似ているのだ。炭鉱の中のカナリヤのように僕はとてもおびえている。社会はこれから、もっともっともっと野蛮になってゆく予感がしてならない。
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