詩とNPO 
  
                        
川村透 
 

 

■詩あるいは詩人と社会とのかかわり

 詩の「公」を考える時にNPOという選択肢は重要だと考える。僕は詩のようなモノを書
くヒトとしての顔以外に、NPO支援NPOのNPO法人で、実践をやっているので、

(NPO法人伊勢志摩NPOネットワークの会 http://www.po-npo-n.com )

 うまく言えないんだけど、
ボランタリーな活動の、自発性と結果としての公共性は、同じ自発的な贈与の関係に裏打ちされた「詩」の「公」の活動と似ているんだと思っている。僕は、世田谷まちづくりセンター系のまちづくりワークショップの実践を通して、上述のNPOの立ち上げから関わっているんだけど、言えることはただひとつ、各々の詩的活動の基盤づくりとしての「公」を多様性の中から有効な合意形成のプロセスを通してひとつのベクトルに練り上げなければならないということ。そしてプロセス重視の立ち上げでなければ僕の経験から言えばたやすく空中分解するということ。ネットワークを造ろうと意図して造ったネットワークは、まず十中八九失敗する解消されてしまうということ。

 それは、「詩がいきいきと生かされ響きあう社会づくり」なんだと思う。今回の座談会はひとつの混沌の中から現状を照らし出している、よくも悪くも。そこからあるベクトルを生み出すには、どうしてもシステマチックな「参加のデザイン」が必要なんだと思う。
僕はモデルとして、詩がいきいきする社会づくりは、NPOがいきづく社会づくりにきわめて似ている、と思うのだ。

 上田假奈代さんが取り組んでおられる高齢者の方、病院での朗読などの展開は、まさに贈与としての社会活動としてNPO的だと思う。ボランタリーなNPOとの協働が可能だと思う。
詩という「作用」の「私」の面である個々の作品による感動のレベルと同時に、「公」の側面にもニーズがある。文化、教育、福祉面で、詩は「公」とつきあってゆく、という公益性も発揮すべきだと思う、それがすべてではないが、そういう機能を、オンラインオフラインを問わずうまく連携できるファジーな仕組みが必要だろう。NPOを造ることが目的ではない、その自発性を生かしながらひとつおおまかなベクトルに沿って、各々のサイトや個々のグループが個々の目的のさらにひとつ上のレベルで、「詩がいきいきと生かされ響きあう社会」のために何が必要か、ということの「合意」が必要だと思う。

 そしてその合意に沿った理念を行動指針にまでダウンし優先順位をつけ、個々の具体化にまで持っていって始めて、詩が社会にとってひとつの「公」として寄与しばじめると思う。多様性を認め合いながらあるおおまかな方向を共有し、ゆるやかに連携する、そんな感じです。

 今、社会のセクターとしてNPOがその役割を重要視されるようになって来た理由のひとつとして、資本原理主義とも言うべきラジカルな市場主義へのやわらかいアンチテーゼとして、取引主体の経済活動よりも、想い、を核にした「贈与」の関係を営む「経済活動を含む社会活動」に価値を見出すこと、欲望によって麻痺しがちな「公」のひとつの復権、がNPOというコンセプトには見えるからではないか、と思う。詩は、この激動の時代、地域主権がなぜか中央集権的にすすめられようとしている僕たちの足元、破綻しつつある資本主義社会の各々の地元から、政治活動ではない、市民活動のひとつとして機能する側面も備えるべき時なのではないか?

 今僕は、あるまちのNPOのいきづくまちづくりのためのワークショップをマネージメントしているんだけど、各々が自分たちの活動に対する自負で一歩もゆずらない展開は、本座談会ととてもよく似ているのだ。ほんとうによく似ているのだ。炭鉱の中のカナリヤのように僕はとてもおびえている。社会はこれから、もっともっともっと野蛮になってゆく予感がしてならない。