詩のボクシングについて 
 三重大会優勝者の視点から 
  
                        
川村透 
 

 

 川村 透です。
 自己紹介は簡単に。主に@nifty現代詩フォーラムで書いています。
 第二回詩のボクシング全国大会に三重代表で出場しました。その他くわしいことは
 樋口さんとこの「ぺんてか」にプロフ載せていただいてますので、以下のurlで、どうぞ。
http://village.infoweb.ne.jp/~penteka/sub1/sub2/poets.htm#katahira

■詩のボクシングについて

 ここのBBSで僕は、第一回詩のボクシング全国大会で、魚村晋太郎さんと上田假奈代さんが、相次いで作道さとしさんに敗れたことが、なんだか深く印象に刻み込まれています、と書きました。ご存知の通り詩のボクシングというイベントは、きびしい他者の前にもっともシンプルな形で肉体ごと声の詩をさらし、その結果どれだけ観客に届いたかを、一対一のボクシングの対戦に模して勝敗を決める、というものですけれど。

 特に魚村さんと作道さんとの対戦を見ていた僕は、いくつもの自分に分裂していました。詩を読み書きしている自分は魚村さんの「サマンサ」の訴求力に満足しているけれど、たまたまチャンネルを変えたらその番組が、という視聴者としての自分は、たっぷりと技量に余裕を残しながらキャツチーな展開を見せた作道さんに、ジャッジ通り、軍配を上げていたのです。詩にこだわっている自分というところをはずしてみた時、詩的なもの、という了解がいかにポピュラーでない特殊なジャンル内的、なものか、という認識がこだましてきました。

 上田假奈代さんは、一視聴者としての自分にとっては、不完全燃焼だったと思いました。あの、上田假奈代さん、という認識を横に置いたとき、それは客席への訴求力の点であまりにリリカルで細い、のでした。対戦者がいる、という相対的な位置で見た時に、かえってその絶対基準としての観客とのタイマンにおいて客の心臓にまで手が届くような貫通力がある、ところまではいっていなかった。

 詩のボクシングは、声の言葉のヴァーリ・トゥードだと僕は思う。だから、三分間で声と肉体を持ってリングに立つ、という条件さえ満たせば、公平な立場にあるすべての人が詩、あるいはその人が詩だと思うものをたずさえて、そこに立つことが出来る。そして、詩人だけが、「人」という属性を持って世界に立つ詩そのものという意味の呼び名で語られているにもかかわらずなぜ、一視聴者である僕の前で一種の脆弱さを感じさせてしまうのか?

 ただ一回限りのステージだから失敗もある、審査員に詩人をもっと入れるべき? 詩のボクシング用に使える詩が限られている?、、、でもそれはすべてのボクサーに等しく課せられた「定型」であるはずだ。現に僕は作道さんと楽屋で話した時にリングでたったひとつの詩を持って立つに至るプロセスの真摯さ、何百という詩を書いて書いて書いて練習して練習して鍛えて鍛えて、初めてその一篇の詩を持ってリングに上がれるという一期一会のなにものか、を感じたのだ。ただ、僕はありていに言えばくやしいのだった。でもそれは、とても苦くとも豊かなくやしさ、なのだった。

■詩のボクシング敗北

 第一回の詩のボクシングでは、僕は予選は突破したものの三重大会本選の第一回戦しかも第一試合で敗退している。その敗北はとてもくやしいけれど実りあるものだった。その時の僕は強さを誇示するあらぶれた北風だった。自分の持ちネタの中でもっとも練習し暗誦しスタイリッシュでキッチュな前衛をぶつけたのだ。それはまさにぶちかましたと言うにふさわしい出来だった。観客をやっていたうちの女神様(嫁)は、「一番恐ろしいあなたがでていた」と言い、息子はただひとこと「とーちゃん、うるさすぎ」と言った。相手は、旧制高校みたいなマントを着込みハートウォーミングに語りかけるスタイルだった。僅差ではあったが、負けてあたりまえだった。

 その時に出会った桑原さんという演劇畑出身の朗読ボクサーは、「今日はお客さんと長いつきあいになるのだから」と、きっちり観客の空気を読み、つかみをきっちり入れた上で自分の世界をつくっていったのが印象に残っている。お客さんの前で僕はきっちりと試されたのだ。関わっていなかった自分に気づいたら、視界が開けた気がした。こうして一観客にもどった僕は第一回詩のボクシング三重大会で、あの天才、若林真理子さんがその産声を上げる場に立ち会ったのだった。

 彼女は、声の巫女、のように対戦ごとに進化してゆくのだ。いつからか、おそろしいことに手には何も持たずその場で詩が生まれてくるのだ即興と言う人為的なもの、という感じがしなかった。僕たちの今、そしてここの空気を吸ってそっと返す樹木や鳥や魚のようなそれでいて赤い、少女幻想の器、なのだった。巫女とも少し違う。神話的主体に拡散するのではなく、すぐれて現代的に「私」なのだった。

 ご存知のように若林真理子さんは全国大会において圧倒的な強さで優勝する。僕は詩をその場所で生成させる、その一期一会の現場性を豊かな敗北によって忘れがたく印象づけられた。そして朗読ボクサーたちのごった煮のような多様性とパワー、プリミティブな言葉の力が、はからずも良質のエンターテインメントとしていわゆる詩の読者の層を超えて一般に流通し始めるのだった。

■第二回詩のボクシングでの優勝

 第一回詩のボクシング出場は僕にとって詩集のPRの意味があった。僕は@nifty現代詩フォーラム片野さんの編集で本の風景社さんにスポンサーになってもらい、オンデマンド詩集を刊行したばかりだったからだ。
『川村透詩集』〜Sukeru 詩 Source 『Blue Kid』〜
http://www.rakuten.co.jp/book-ing/402373/402374/

そのために余計に気負っていたわけなのだが、ともあれ僕は第二回の詩のボクシングにも挑戦することとなった。

 僕は詩をセレクトする作業と同時に、あのリングでこの「詩たち」が生まれる現場になるために仕事と各種NPO活動の隙間に深夜に練習を始めたのだった。まず大切なことは3分という時間を体に叩き込みながら読むことだった。砂時計を持ち歩いて僕はいつでもどこでもイメージトレーニングを繰り返した。リングの先端に立ってお客さんの顔や空気を創造しながら窓に向かってリーディングを繰り返した。

 そして僕はリングに立ち透明な、ただここにあるレモンのようなものを伝えたいだけの何かが満ちてくるだけの存在となった。僕は10あまりのレパートリーをいつでも出せるようにしておいて客席の息吹と胸の中の高まりのままに、一番伝えたいものを読んだのだった。それは若林さんから学んだことだった。即興のお題が「ひかり」僕はすっとひかりさしてくる光景を視てただそれを言葉にしていっただけだった。こうしていつ負けても恥ずかしくないからいいやと思ってなぜか勝ってしまうたびに、ああまたもうひとつ伝えられるんだと思い、敗者復活者ともくじ引いてしまって対戦したんだけど結局優勝なんてことになってしまったのだった。

 すぐさま地元CATVのインタビュー、新聞のインタビュー取材が相次ぎ、ささやかながら僕は僕なりにポピュラリティを得てしまったのだった。僕は詩誌などに属したことがないのだけど何やら励ましの手紙をいただいたり、仕事でお客さんのところに行くといろいろと聞かれたりコンビニでエロ本の前をうろうろしようかと思っていたら、「あれ、詩のヒトじゃない?」と指さされたりしてしまうのだった。でもいいことばかりでもなく、取材記事はどうしても「いわゆる繊細な詩人」的なイメージにバイアスがかかり悩み多き日々でもあった、イメージがひとり歩きしてゆくのだ。詩のボクシングで見せたモノは詩のボクシングの場にふさわしい、ごく一部の僕の中ではむしろ特殊なものでもあるのだった。ともあれ、割合に冷静に僕は全国大会用の練習に励むのだったやることは基本的には変わらない、しかし大会が近づくにつれ、僕にはひとつ大きく欠けているものがあることに気づいてしまった。

■詩のボクシング全国大会
 僕に大きく欠けているもの、それを補うため、決戦前夜大村浩一さんの設営でスパーリングの場を設けてもらったのだった。それは他者の目からの、立ち姿などビジュアル面など、舞台的なCheckだった。手の位置、動作、目線、姿勢、角度、声質、テキストの位置、など細かいCheckをすませ、僕は本番にのぞんだのだった。結果は二回戦で敗退、しかし勝利はささやかで敗北こそが大きく大きく豊かな果実だった。僕にはまた大きな課題が出来た。

 ★この文章の結論として、木村ユウさんの言う

>●詩を読みたいと思っている人(潜在的なもの含む)に、詩が届いていない現状。

 これをどうするかという課題に対するひとつの特殊解として、詩のボクシングのリングに上がり結果を出すことでマスコミを通じたチャンネルが出来る可能性がある、また潜在的に詩を求めている人たちに届けること、どこに詩があるかを伝えることが出来るということです。たかだか全国大会で二回戦に進んだ程度の僕でさえ、NHKの取材が入ったんだから。ほんとうに心ゆさぶる力のあるものならば、それは必ず届く場だと思います。